自分のやっていることへの距離

べてるの家」の向谷地生良(むかいやち・いくよし)氏の講演会に参加。
「当事者」という言葉のまわりを参与観察に行った形でもあります。複数の気づきがありました。



講演後の質問コメントでは、檜垣立哉氏より

 「本人が自分のことを研究するというのは、本当にできるんだろうか」
 「研究対象との《距離》が重要なんじゃないか」

と、ほとんど講演の趣旨そのものを覆すような疑念も出されていました(大意)。*1


「当事者」という名詞形と、研究者の誠実さを担保するとされる「距離」。*2


私はむしろ、インタビューや参与観察の場にいながら、影響関係を実際に生きた事実を「なかったこと」にするような研究ディシプリンに怒っている。先行研究どおりの言葉の厳密さを保てば研究者のアリバイが担保できる、という発想そのものが、自分のアリバイのなさを忘れている。


つまりいわば、《生きてしまった状況の自己分析》を欠いている。
そこでは、論じている自分の研究言語とのあいだに《距離》がない。
これはアカデミックな研究者にも、そして、病者ご本人がなす「当事者研究」にも、ともに言える。


――こういうことを考える、ラボルド病院タイプの「制度分析 analyse institutionnelle」は、いわば支援者や研究者、そして「当事者さん」の誠意そのものに挑戦することになっていて、だから短期的にはどうしようもない。何かを指摘することが、そのつど紛争になってしまう。


焦らずにいこう。



*1:その後の複数の方々とのやりとりでも、同様のご意見が。

*2:たとえば、これは昨日出た話題ではないけれど、信仰に関するフィールドワークをやっていて、研究対象が研究者と同じ宗派に変わってしまった場合、「距離が取れていなかった」「影響を与えてしまった」として、非難の対象になるらしい(参照)。