グァタリと鑑別診断
先日、独り言みたいにして、こんなことを幾つかつぶやいていました。
出来合いの解釈や診断を当てはめるだけの精神分析は、やはり「思考や状況の固着」に加担してしまう。▼固着した概念や作業にも意味があるとして、その位置づけそのものを考え直さなければ。
2012-09-09 12:34:31 via web
それにお返事をいただいたわけではないのですが、関連して、
廣瀬浩司氏(参照)のツイートより:
以下、廣瀬さんに向けて
グァタリ解読の先達のご意見として、鮮烈で驚きました。
一点だけ、質問させてください。(ネット上で、ぶしつけな形ですみません。むしろ、私の疑問のメモとして。)
支援・医療の実務においては、診断上の見分け(鑑別診断) が、決定的に重要です。
そこで、「ラカン理論は、適切な鑑別診断に有益だ」という議論が、
私が再びラカンに興味を向ける理由になっているのですが(参照)、
むしろ問題の焦点は、DSM をふくめた 《鑑別診断》 の現状です。
恣意的な独断と、決まった後の理不尽な固着が多すぎる。*2
実務の現状からすると、
「診断など、歴史的で差別的な虚妄にすぎない」で終わらせることも、できないと思うのです。
そうすると、ひとまず制度上の慣例や、なし崩しの打算で、「見分ける」しかないか。
グァタリ的な問題意識や実務と、《鑑別診断》の関係について、お考えを伺うことは出来ませんでしょうか。
お忙しいところ、申し訳ありせん。ネット上でなくても、何かのついでや、
「この論文を読め」でも構いませんので*3、お返事をご検討をいただければ幸いです。