手続き主義ではなく、主体化の技法論である《制度化》論



メルロ=ポンティは母胎回帰的」といった理解は、日本ではむしろ常識的ではないでしょうか*1
廣瀬浩司氏の論考(参照)は、《制度化》概念に執着して生成モチーフを見ていて、それがグァタリや後期フーコーとの蝶番になっている、というのが私の理解です。先日の「象徴的マトリックス」も、受動と能動のからみあう《生成》の文脈で読んでいます。


ラカンの主体化論は「シニフィアン+欲望の道」「sinthome に同一化せよ」で終わってしまって、生成過程を内側からどう生きたらいいのか、そのプロセスの技法論にならない。また、ジャン・ウリメルロ=ポンティの制度概念を抜かしたままグァタリや「スキゾ」を持ってきても、やはり内側からの技法論にならない、だから意味がない、というのが私の立場(というか必要性)です。


多くのドゥルーズ/グァタリ論は、そういう意味でほとんど参照価値がないのです、私にとっては・・・。それは単に党派的なのではなくて、《主体化がうまくできない状況に対して、手がかりを与えてくれない》ということです。
主体化がうまくできないがゆえに妙な言動になっている人に、結論部分のおかしさだけを伝えてもあまり意味はないように思います。


「この人は精神病でも障害者でもないけど、ひとりで家を追い出されたら、死ぬだろうな」と感じてしまう相手について、どうするか*2


ご存じだと思いますが、先日の「ひきこもりには兵糧攻めで」(参照)というのも、『批評空間 (第3期第1号) 新たな批評空間のために』での中井久夫×浅田彰×斎藤環の鼎談で、浅田彰氏が口にしていた方法でした*3。 しかしこれは、

  • (1)手がかりもなく経済的に追い詰めるだけだと、ある程度の死亡事例が出ることは避けられないので、医師からは職業倫理上言えない*4。 TVタレントなども「家から追い出せ!」と言うわけですが、支援者は、死亡事例については責任問題になるでしょう*5。 思想的に「別にいいじゃないか」といっても、実際に関係省庁を説得して事業化するには、相応の配慮が要ります。
  • (2)80年代型のスキゾ論には制度論がなく、それゆえ主体化の手がかりを論じる文脈がないので、ひきこもりのような状況については「全面肯定」か、さもなくば「兵糧攻め」という以外の提案ができないのではないでしょうか。繰り返しますが、本人やご家族が内側から参照できる主体化論がありません。そこで《超越》だけを口にしても、決断主義的に屹立しただけでは。
  • (3)現実原則というのは、単にお金の問題ではなくて、《政治》ではないでしょうか。政治というのは、自分にどんな事情があろうと、またどんなに「正しい」ことを言っていても、うまくいかない。私はそこに、現実原則を見ます。そういう意味で、状況をいかに《政治化》していくか。いやむしろ逆で、政治的でしかあり得ない状況に合流するには、どういう主体化の技法を準備すればよいか。俯瞰的な理論やスローガンだけでは、どうにもなりません*6



《制作過程》を論じることは、単に個人的な必要なのではなくて、非常に大きな射程を持つミッションではないか、と思っています*7。 それをきちんと論じる必要がありそうです。



【追記】 いただいたお返事へのレスポンス

ツイッター向けに下書きしたのですが、あまりに長くなったのでブログにします*8



ひきこもりに関して、「××歳になるまでに〜しなさい」というのは、いまの言説の動きとしては、考えにくいです。そういう言説そのものが極端にトラウマ的なので(本人にとってばかりでなく関係者にとっても)、今その言葉を言っている人は、この業界とはなじみが低いと感じます。


あえて話題にするとしても、それがトラウマ的なアプローチであることをわきまえた、あるいは個別ケースに即した話題設計は必須です。統計上の平均年齢が30歳を過ぎていますし、大まかに言って全体の3割以上が30歳以上のうえに、いちど引きこもったケースの多くは「そのまま」です。


××歳までに」と設定した瞬間、すでにその年齢を過ぎている膨大なケースを見殺しにした(あるいはあえて痛めつける)発言になるので、トラブルも必至です。そこまでストレスをかける発言が、じつは単に経験不足(事情を知らない)ゆえだとしたら、相手にされません。


「親が先に死んでしまう」というのは全くおっしゃる通りで、それを皆が考えています。本人たちは「親が死んだら自分も死ぬ」とか「ホームレスになれるだろうか」とかで頭がいっぱいですが、自分に社会復帰ができるとは思えない。(その理由は様々でしょうがここでは措きます)


斎藤環さんは、ひきこもりに関する講座にファイナンシャル・プランナーを呼んだりして、「ひきこもったままでも生き延びる方法はないだろうか」的な模索に向かっている印象です。 http://bit.ly/HKO0cl (詳細はご本人に質問するか、彼の著書・講演等にあたってください)


たとえば以前には、「親が安いマンションを買い与え、年金受給の開始年齢までの30年間、毎年100万円を保証する契約を息子と交わしたケース」を、よく紹介されていました。つまり、「命の保証」だけは、親が引き受けようとした事例です。それぐらい思い切ってくれ、というような。


しかしこれも、ある程度以上の経済力が必要でしょうし、70万人と言われるケースの多くはカバーできないと感じます(だからといって意味がないのではなく、どの方法にもこぼれるケースがあるのは当たり前です)。


社会保障には全体の一部しか頼れないでしょうし、そうやって「頼る」発想では、なし崩しにどんどん死んでいくしかなさそうです。だからこそ、単なる決断主義や「放り出す」といったことではなく、内側から取り組み直す方法が必要だ・・・という話に向かっているのが、今の私です。


そして、いわばこの《厳しさ》の再設計は、ひきこもりに留まらない射程を持つと思うのですが、それはこれから考えたいと思っております。

切り口としては、診断がつくケースなら既存の福祉スキームに乗れますが、
鑑別診断上は病気でも障害でもないのに、社会参加の実態としては「このまま死ぬだろう」としか思えない場合、どういう選択肢をつくるのか。


ひきこもりの状況をあまりに一般的に「問題視する」というのは、個別ごとの状況が違いすぎるし、ディテールに即する発想を失いがちになるので、最近はあまり考えていません。ケースごとに利用できるリソースを考える感じです。規範的一般論はむしろ邪魔と感じます。

    • 【4月16日の追記】: あえて規範を考えるなら、「規範もリソースの一つ」と考えるのが妥当だと思います。それにすがればよいのではなくて、状況の中で配置を考える要因の一つです。つまり規範はメタレベルにあるのではなくて、それ自体がオブジェクト。

関係者のそれぞれがフェアな状態に向けて動けるよう*9、状況を変えたいのですが。――抽象的に聞こえるかもしれませんが、個別の鑑別診断には、交渉上のカードみたいな位置づけしかないと思います。(物質科学に頼れない精神科のカルテ周辺には、そういう事情が常に付きまとうと思います。)


多くの事例は、鑑別診断上は問題ないのに「社会参加はできない」ので(履歴書に10年も空白があったら、そこからの復帰は並大抵ではありません)、診断よりも、参加できない実態を具体的に変革するしかない。そして「変えよう」とする動きは、つねに無力に苛まれます。


今の状態を「自閉だ」とか「不活性だ」と規範的に “診断” することには、むしろマイナスの意味を感じます。 診断することで福祉リソースを使えるならともかく、意識と状況を固定しかねない。


最低限の診断のあとは、「動きをつくりだして交渉に紛れていく」ことを目指しますが、過酷すぎる政治環境でもあり、やや途方に暮れています。


いまは、「どのポイントに介入するのが最も効果的なのか」と、残り時間の照準定めを必死にしている感じです。



*1:メルロ=ポンティとはとりあえず別の問題として、《制度論は(悪い意味で)イマジネールに流れがちではないか》という懸念は、個人的に持っています。

*2:深刻な事例を一定数ご覧になれば、これが誇張した表現ではないことはお分かり頂けると思います。

*3:《治療者としての斎藤さんは拙速な「兵糧攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね》(p.82)斎藤環氏は、90年代の出発時点では「病人役割の引き受け」等に基づく規範を提示していたが、最近では「胸を張って脛をかじれ」をスローガンにしている(参照)。

*4:今後の超高齢化・少子化社会を考えても、「全員をやみくもに特別扱い」はできないので、政治決断が必要なんだと思います。ところが日本の政治風土では、「なし崩しに人が死ぬ」ことは大目に見られても、英断でやむを得ず亡くなることは、きわめて受け入れられにくい。その結果、なし崩しに状況が悪化し、壊滅的になることも懸念されます。そもそも引きこもりには、「防衛反応のなし崩し」というところがある。

*5:そして親は当然、死なせる率の高い決断はやりにくい。ご家族が「できれば死んでほしい」と思っていても、社会的には糾弾されるでしょう。死なせてしまっても、ひきこもらせ続けても、糾弾されるわけです。

*6:それは、そういうものに頼る主体化の方法がメタメッセージとして提示されたことになる。

*7:「The Personal is Political」(個人的なことは政治的なこと)

*8:この直前にも、私からいくつか発言しています。

*9:たとえば、ひきこもり状況を守るためにご家族が過剰に負担を抱えていないか、あるいはご本人が不当な人間関係を我慢しすぎていないか、など