代謝というチャレンジの、環境と技法

画家・永瀬恭一氏(強調は引用者):

 分節のない混沌(自然)の中に、自立した系を仮構して、その系が常に周囲の混沌(自然)と一定のやりとりをしながら代謝していくこと、つまり生物というものの最も基本的な(ゾウリムシとかボルボックスとか)姿に「芸術」というものの核は見いだせる。

 芸術を学び、芸術を扱えるようになることは世界と自分の代謝関係を扱えるようになる、ということで、こういう事を言うのは本当はいやなのだけど、信じられないほど「役に立つ」。例えば、芸術を学べば、「価値」と適切な関係を結べるようになる。もっと直接的に言えば、価値というものを、限定的ではあるけど自分自身で組立てて自立したものとして扱えるようになる。つまり誰かの作った、自分のものではない「価値」からある程度距離を持って生きていけるし、必要に応じて自分自身で自分の「価値」を構成できるようになる。

 芸術は、他人や外部が設定した価値に対して一切有効性はない。それ自体が自立した価値の系を操作するのが芸術なのだから、「お金持ち」になることも「貧乏」になることもない。お金持ちだろうが貧乏だろうが、そういう環境から常に自立した系を設定できるようになる。

ここで記されている芸術観が、批評の歴史でどういう位置づけを持つかはわからない。
ただ永瀬氏のいう「役に立つ」が、私の考えたい「臨床効果」に、とても近いと感じる。
永瀬氏は、生命科学の用語である《代謝》を比喩として持ち出しているが、精神医学や社会参加の臨床を、《代謝》という概念で考え直せないか。

    • 《新陳代謝メタボリズム》という言葉は、1950年代終盤からの建築運動の名前として流通しているらしい(参照)。



そこでネックになるのが、人間の代謝は、政治的でしかあり得ないということだ。 つまり、利害と集団的意思決定に関係している。 自分の所属集団を問い直すことは、代謝を維持するために必須だと思うが、それは往々にして局所的な代謝を破綻させる。


BS世界のドキュメンタリー 内部告発 〜組織と闘う人びと*1より:

 政府の腐敗、公務員の不正行為に関する報道に最も及び腰なのは、NYタイムズロサンゼルスタイムズなどの大新聞です。自分の会社の財務面を心配するあまり、政府の腐敗を厳しく糾弾する記事を書くことができないのです。政府の人間とのしがらみがありますから。私はもう期待しなくなりました。彼らは政府を批判しても、血を流すようなことはしません。NYタイムズなどに、真実を期待してはいけないのです。 テキサス大学教授ビル・ウィーバーの発言)

 内部告発が、ときに死を招くこともあります。 2006年7月21日、橋から身を投げた43歳のアダモ・ボーヴェの遺体が、ナポリの環状道路で発見されました。 マフィア特捜班の警察官として、ボーヴェは長年、国家機密にかかわる事件を捜査していました。 盗聴を得意としたボーヴェは、当時テレコム・イタリアの警備責任者をしていました。 ボーヴェは、2003年にミラノで起きた、CIAによるイスラム教指導者の誘拐、およびエジプトへの引き渡し事件参照)に、イタリアの軍情報部が関わっていたことを突き止めました。 またテレコム・イタリア社内の大規模な盗聴システムも暴露しました。 この件では、テレコム・イタリアの経営陣とともに、イタリアの情報機関が非難を浴びました。 「自殺したと信じる者はいません。双子の弟によれば、アダモは誰かに尾行されていたそうです」。 (当時の報道映像と、番組内のナレーション)

 内部告発者は、「誰かに攻撃されるのではないか」といつも不安を感じています。 自分を排除し、辞めさせるために、組織側が何らかの事件をでっち上げようとしているのではないかと心配になるのです。 私は弁護士から言われました: 「問題は、そういう事態に《なるかどうか》ではなく、《いつなるのか》だ」。 ロスアラモス国立研究所安全管理責任者クリストファー・スティールの発言)



たとえば日本では、偽装を告発した西宮冷蔵ばかりが取材されて、その西宮冷蔵を排除して追い込んだ関係企業はまったく報道されない。 ▼自分の周囲を考えても、《代謝》を滞らせる黒いしがらみや慣例だらけで、少しでも身を動かすと、誰かの利害に抵触する。


永瀬氏はまた、次のようにも書いておられる。

 芸術は政治と無関係ではない。また芸術は政治そのものでもない。端的に言って芸術は政治や社会制度を包摂しているのだ。芸術について深く考えていることは本質的な意味で政治や社会制度について考えることに等しい。逆は成り立たない――政治について深く考えても、芸術への思考足り得ない。これはごく簡単な話で、政治より芸術の方が大きいものなので、芸術及び芸術を巡る思考から政治をトリミングすることは可能だが逆はできない。

「大きい」というより、
芸術というのは、何か箱庭的に囲われた領域があるのではなくて、
チャレンジするその場で常に問われる、ということではないのでしょうか。


やみくもに頑張ればいいのではないし、慎重な技法や計算が要る――観賞者としてではなく、作り手側として、自分の問題として。 私たちは誰一人として、観客席にはいない。



芸術創造のチャレンジと、内部告発的な覚悟と、《代謝のための臨床活動》が重ねられるとして、

それは誰かが人称的に頑張るより、“通報システム” を技術的に整備したほうがいいかもしれない。
つまり、「偽装してはいけませんよ」より、偽装ができないような管理システムを設計したほうがいい。 とすると、システム整備のほうが、目撃者としての芸術家を教育によって生みだすより、重要かもしれない。(⇒「工学的技術によって、芸術家の代替はできるか」という問い。*2


私はこの問題を、とりわけ至近距離の関係性(中間集団)で考えています。
《リアルさ》は、単に消費財ではなくて、集団的意思決定の致命的ファクターであり、リアルさの生きられ方は、共同体ごとに違っている。 あるリアリティが支配している場では、別のリアリティは排除・抑圧されます。 この生身の政治は、技術環境がどんなに進んでも残るのではないか。
血なまぐさい《意思決定》の問題が残るかぎり、芸術の必要と困難は残るし、参加と排除の臨床問題も残る。――そのあたりでずっと考えています。



*1:元番組は、フランス ARTE.TV の「Du côté des "anges"」(2007)。 英語で言うと「on the side of angels」、つまり「天使の側に」。 preview動画

*2:「ネットがあれば政治家はいらない(もしくは少数で済む)」というのが、最近よく議論されています(参照)。 同様に、社会参加に介入する医師や臨床家は、工学的技術で代替可能かどうか。