順応主義と、専門性ナルシシズム

シニカルな人は、専門性に弱い。 彼らが嗤うのはあくまで「知らないのに知った振りをしている」に対してであり、「専門家」には簡単に去勢される。 裏返せばそこに最悪のナルシシズムがある。 既存枠組みでの専門性は、それへの順応主義の形で窒息をもたらす。 「専門性の現状」を基点に制度分析できること、そこにこそ社会参加のために決定的な臨床的焦点がある。(転移は、その距離に対して生まれる、そのスキマに対して参加の場所が生まれる。転移とは、「自分も仕事をしていいのかもしれない」と思わせる場所のことだ。それは、専門性と無関係ではない。)


斎藤環は、「現代では成熟できない」というが、むしろ専門性への順応で「成熟できた」顔をしたがる人ばかりではないか。 世代は関係ない。 それこそ成熟できたような顔をして、「現代では成熟はできない」などと言うべきではない。 それ自体が「専門性に酔う幼児性」だ。 老人のようにメタに振る舞う幼児性


「順応したつもりの幼児たち」のナルシシズムこそが問題なのだ*1。 順応ではなく、みずからに反復する亀裂を分節する成熟が、どうしても必要だ(それがなければ窒息してしまう、入門できない)。 専門性に惑溺しない、そのつど原点ゼロに立ち返る分析の保持。 分析のプロセスがつねに起動できる場所の保持。


結論としての政治的立場よりも、専門性(順応主義)との距離の取り方のほうが重要だ。


浅田彰の「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」は、なんとひどい欺瞞なのか。 シラケている人間はノルことなどできない。 ノッている人間はシラケなどしない。 この二極分化が、虚無を背景にした再帰性と、専門性ナルシシズムとに分岐して、その両方がパラノイアックに硬化する。 ▼シラケていても、自分はすでに何かの制度を生きてしまっている*2。 シニカルに見えてすでに狂信してしまっている自らのディシプリンをこそ分析すること(再帰性は、狂信的な順応主義の姿だ)。


専門性ナルシシズムには、「どっちがより制度順応的か」しかない。 これでは、専門性の制度自体には何も批評がされない。 着手の場所がない(それこそが内在的に臨床的なのに)。 順応主義への没頭は、順応努力を依存症に置き換えようとすることだ*3


制度分析に、内発的な取り組みのチャンスがある。 事情を詳しく知れば知るほど、制度分析のディテールが適切になるが、それは専門性のナルシシズムに酔うこととはまったく違う。 ▼ベタな順応を要求する支援者や研究者のナルシシズムは、苦しみの構造を内的に助長する。 順応主義によって起こる苦痛を、順応主義によってマネジメントしようとしている。


強迫化した順応主義の苦痛については、多くの人が「癒し系(抱きしめ系)」でまるごと肯定しようとする。 しかしその「全面肯定」は、それ自体がきわめて抑圧的なイデオロギーだ(反論することを許されない)。 とはいえその癒し系を批判しても、今度はその批判意識自体がナルシシズムに閉じてしまう*4。 「自分は批判的なんだ」という自意識のナルシシズムは、自身の関係性がどういう事情にあるかを全く分析しないため、差別や暴力が平気で横行し得る*5


専門性の厳密さに対して、人文系の「曖昧さ」をぶつけるのがポストモダンだと思われている。 斜に構えて、喫茶店でクダを巻くこと。 しかし制度分析を続けるには、むしろ勉強を続けることが必要だ(完成形などない)。 既存の専門性枠組みの習得で「専門家でございます」と居直ることを許さない*6、常に新しく取り組みなおされる分析であり、静態的な知識の体系として居直ることをこそ許さない。 現時点でくり返される現場的分析が問題になっている。


ここで問題になる「新しさ」は、症状のように要求される。 剥き出しに痛む「腫れ」のような分節要請であり、新しさは身体が要求する*7。 “厳密性” に居直る専門性やイデオロギーの硬直(古いままに居直ること)は、この腫れが許さない。 疼痛が、制度的硬直に激怒する。――私はここに、不登校・ひきこもりの根幹を見ている。



*1:「当事者ナルシシズム」の幼児性は、「自分はこれの専門家なんだ」と酔うナルシシズムと同じ形をしている。 「当事者」は、メタ的に、常にすでに順応を達成した状態と思われている。 ▼全員へのチャンス提供は、状態像への承認としてではなく、「分析に着手してもよい」という意味でこそ必要なのだ。 すでに達成された「状態像のアリバイ」が全員に承認されるわけではない!(それは、既存専門性へのベタな承認と同じだ。)

*2:極端なニヒリズムは、むしろロマン主義に近いかもしれない。

*3:私自身が、ずっとそのような指針しか見えずにいた。アルコールに頼ったことは、こうした知的指針への思い込みと無関係ではない。 「好きなこと」に依存することで、社会に順応しようとすること。 ▼この点で斎藤環の「ひきこもりオタク化計画」は、はっきり間違っている。 それは、依存の実現(症候への惑溺)において再帰性を忘却させることでしかない。――斎藤環は、(かつての私のブログ執筆のような)自傷行為的なリアリティの探求をも、「欲望の道」として放置するのではないか。

*4:制度的な順応強迫を、「自分には分かっている」という左翼イデオロギーで置き換えただけだ。 ▼パステルカラーの「癒し系」か、左翼イデオロギーの領土的威圧のナルシシズムか。 いずれも、「分析なき順応主義」のバリエーションでしかない。

*5:表向き良心的な知識人は、裏で何をやっているのか。

*6:既存の視線枠組みのままでいくら臨床経験を積んでも、硬直した視線と解釈を再生産するだけだろう。

*7:ドゥルーズ/ガタリの現在』掲載の三脇康生の論考は、「いつも「新しい」精神医療のために」と題されている。 この「新しさ」は、疼痛のような分節要請とこそ結び付けられるべきだろう。 専門性のルーチンをそのままに温存する、スローガンだけの「新しくしましょう」は、疼痛を無視した「古さ」に居直る。 つねに新たに斬り込む分析労働こそが問題になっている。 どんなスローガンを立てても、分析がそのつど再起動しないのであれば、それは古さに居直ることでしかない。