「プロセスの危機」 3主題の一致

以下の3つは、同時に遂行される。 ふつうはバラバラに論じられるが、分解しては臨床的に意味がない。 さまざまな要因が、同時に一致して遂行されるという理解が必要。 ▼論じて組み直す創作が労働過程であり、同時に臨床過程でありつつ、交渉・契約の過程でもある。 生きることは Prozess として営まれる。

  • 契約外労働としての《分析労働》 【労働過程論】
    • 「役割」にパラノイアックに固着することを避けるために、単にそれを降りるのではなく、いわば役割分析をおこない、具体的にそれを組み替える。役割を「交代する」だけでなく、その役割をもたらしているゲーム制度そのものを論点化(対象化・分析)し、換骨奪胎する。
    • 斎藤環は、(東京シューレなどと同じく、)「当事者」「支援者」という役割固定で語りすぎる。 役割固定自体が、臨床上の害悪になり得る。
    • このことは、社会生活や国の制度のさまざまなレベルで語り得る。


  • プロセスとしての《フレーム形成》 精神病理学
    • 「自分の現実を構成できない」*1、「去勢のフレーム問題」。
    • 講演「ゲシュタルト概念の転成」で合田正人は、動的生成過程にあるフレームの話をされていた。 分析労働と関係の組み直し自体が、フレーム形成の内発的プロセスになる*2
    • 斎藤環は、メタに去勢を語るだけで、現場と理論が分離されている。 「制度と実存の関係を論じ、作業場のフレーム自体をリアルタイムに組み直す」という視点がない。 それは臨床に必須なのに。 斎藤自身が、あくまで「観客席」にいる。 作業場そのものに、批評的・内在的に付き合っていない。


  • 現実とのつながり方、リアリティを問題にする《創作》 【美術や文芸の批評】
    • 自分のリアリティを問題にすることは、やり方を間違うとたいへん危険。 ひきこもりで問題になる「再帰性」や「主体の実体化」(斎藤環)は、それ自体、本人が自分のリアリティに縛り付けられた状態。 それは自分のリアリティでありつつ、そのリアリティに自由を奪われている。
    • いわゆる「当事者語り」は、その語る努力自身が、自傷行為のようになる危険がある*3。 本人が自分の現実にどう取り組むのか、その作法や手続きが分析・批評され、危険についてはアドバイスが必要になる。やみくもに「とにかく自分のリアリティを追求すればいい」*4というのでは、自滅的なだけの路線もOKという話になる。
    • 斎藤環の臨床論には、ポイエーシス(制作)の契機が決定的に欠けている。




*1:参照1】、【参照2】。 字面だけを見ていれば、これは統合失調症患者の訴える苦痛と似ている。

*2:今の私が理解するドゥルーズの《強度》は、この内発的に形成された分析の強度だ。

*3:永冨奈津恵の警告(参照)や、『こころの科学 (2005年 9月号) 123号 ひきこもり』掲載の拙稿など

*4:斎藤環ラカン派を参照して言う「欲望において譲歩してはならない」(参照)だけでは、「とにかく没頭していればいい」という自己満足的な、また危険な話になってしまう。 ▼そこで目指される《強度》は、嗜癖的なものでしかない(これは宮台真司にもいえる)。