受動と能動――「思考の真の敵」

ドゥルーズ差異と反復』について、『Arisanのノート』より(強調は引用者)。

 なんというか、この本では(書かれた年代から言って当然かもしれないが)、主張が非常にストレートであるという印象を受けるのだ。 (略) 本書の第3章を読むと、とくにその思いが強い。 ここに書かれてるような主張は、すべて「今こそ」読まれるべきものだ。
 その第3章だが、普段の表象的な思考のなかで、それが引き裂かれるようにして、本当の「思考すること」が(強制されて、非意志的に)はじまるというモチーフは、なんとなくだが分かる。
 ブログに何か書こうと思うときは、そういう感じであることが多いからだ。
 何がそれを引き裂くのか(強いるのか)ということが、この本で問われていること(同時に、この本が問うことを強いていること)の全てであろう。

Arisan ご自身が、メタへの居直りではなく、制作動機の部分で語られている。
ひきこもりに取り組むための環境整備として、学問的な(正義論的な)メタ語りも必要だ。しかし、ひきこもりの主体の困難を問題にするときには、主体の制作プロセスを問題にしなければダメだ。


ドゥルーズ『差異と反復』アメリカ版への序文*1より(強調は引用者):

 わたしたちは方法*2にしたがって思考するだけなのではないと、私は言いたい。他方、程度に多少はあっても、暗々裏の、暗黙の、そして前提された「思考のイメージ」が存在するのであって、わたしたちが思考しようと努めるとき、まさにこのイメージがわたしたちの目的と手段を決定するのである。たとえば、思考はよき本性を所有し、そして思考者はよき意志(「自然的に」真理を欲すること)を所有しているということを、ひとは前提にしている。ひとがモデルにしているのは、再認であり、つまり共通感覚〔常識〕であり、同じものと仮定されたひとつの対象にもとづくすべての認識能力の行使である。人が指し示すのは、戦うべき敵であり、誤りである。そう、人が指し示すのは、誤りでしかないのだ。そして、真なるものは、解に、すなわち答えとして役立ちうる命題に関わっているということを、ひとは前提にしているのだ。以上が、思考の古典的イメージである。
 そして、このようなイメージの核心に批判の矛先を向けたというのでなければ、命題的様相をはみ出る諸問題にまで思考を導いていくことは困難であるし、あらゆる再認を免れるいくつもの出会いに思考を及ぼすことは困難であるし、誤りとはまったく別の敵に、つまり思考の真の敵に、その思考を立ち向かわせることは困難であるし、思考を強いるものに到達すること、あるいは思考をその自然的な麻痺から、またその札付きの悪しき意志から引き離すものに到達することは、困難なのである。



医学・心理学・社会学などの既存学問の専門性は、それ自体としていくら “専門的” になっても、ひきこもりを内在的に考察したことにならない。 制度化された専門性は、それ自身に「思考を強いるもの」を、まったく扱わないから。 制作プロセスがまったく扱われない。
むしろそうした専門性を素材に、専門性そのものを対象化(論点化)する考察が必要だ。 「専門性の対象化」*3、その共有にこそ、決定的な臨床的要因がある。 それは単に専門性を無視することではない。
東京シューレは「医療化(病気扱い)」のみを敵対視したが(参照)、さらに言えば、「思考の古典的イメージ」こそが問題だった。そしてこのことは、東京シューレだけの問題ではない。

 まさに『差異と反復』第三章こそが、いま私にもっとも必要でありもっとも具体的であると思われる。 そして、わたしたちが、樹木のモデルとは対照的なリゾームの植物的モデルを思考のために援用するときには、その第三章こそが、『差異と反復』以降のもろもろの書物にまで、しかもガタリとの共同研究にまでも、樹木的思考ではなく<リゾーム-思考>を導入しているように思われるのである。
 ドゥルーズ狂人の二つの体制 1983-1995』p.162)

Arisan のいう第三章を、ドゥルーズ自身が名指している。



*1:狂人の二つの体制 1983-1995』p.161-2

*2:【上山注】: ここでいう「方法」とは、学問や実務の手続き(ディシプリン)や、運動体のイデオロギーのことだろう。

*3:これは、労働環境の対象化でもあるはず。