凪(なぎ)だけがもたらす分析の勤勉なしには、主体の構成も連接もない

三脇康生ラカンラカン派である――ルイ・アルチュセールフロイトとラカン―精神分析論集』を読む(上)」*1より(強調は上山)。

 ラカンはなるほど主体に深い穴や「分裂」があることを明示した。 しかし「その深淵は主体ではなく、主体のわき、『我』のわきにぽっかり口を開けるなにものかである。 (中略) 『分裂』とは、むしろ種差的な関係ないしは連接の一種で」あるのに「ラカンは、つまるところ、主体の分裂という概念のもとに、なんらかの深淵ないし欠如を主体として設定しているだけではないのか」(p.183)。 引き裂かれた主体があるのではなく、我々のわきに連接としての開かれがあるということこそが問題であるのだとアルチュセールは明言する。

欠如としての、「孔(あな)=亀裂」としての主体という理解は、ラカン派では繰り返されるし*2、私自身も臨床的な恩恵を得てきた*3。 しかし逆にそれは、「孔としての主体」という解釈枠にみずからを閉じ込めることでもある。

 イデオロギー的主体よりも無意識的主体のほうがましであるとか上等であるなどと言っても仕方ないのだとアルチュセールは言っているのである。 おそらく彼の結論は次の一節に尽きる。 「言説も現実対象に実効力を行使しうる。ただ、それはもっぱら当該の実践のなかに割り込み、連接をおこなうことを通じてであり、その時、当該の実践は言説を、実践上の『作業過程』における道具として使用する」(p.185)。 連接の空間を確保せよ! これである。 精神分析はルーティンワーク化する前には、この連接の空間をかろうじて見せてくれるものである。



「連接」は、単に横断的な直接行動ではなく(80年代にはそんなのばっかりだ*4)、場所としての自分を論点化する分析のみがなし得る仕事であり、ラカンの理論は、主体をそうした大事な仕事から免責してしまっている。 その免責は、ほとんど拘禁に等しい*5


「連接の空間」は、三脇自身は「凪(なぎ)」という言葉で繰り返し語っている。 それは、主体構成の困難の苦しみと関係している。 凪がないなら、連接も分析も起きない。 流されるまま持っていかれて、疎外されたまま途方に暮れる。 ここでは主体が、制作過程そのものとして構成されることが問題になっている。

 このような病状の悪化と改善の間で、事後的な見直しの中に患者さん自身が入り込んできてくれる場合がある。それで病状の悪化と改善の間で「凪」のような地点が見いだされることがある。そのような場合には、必ず上記の事後的な見直しの中に、患者さんの居心地の良さを確保しようとする力が働いている。それは若い力のあるケースワーカーさんのやる気であったり、患者の家族の人の病気を正面から受け止める勇気であったり、それらを受けてもちろん患者自身のリズムの獲得する力が機能している。
 私はこの「凪」の状態で機能しているものこそが80年代に日本に紹介された「機械」と名付けられるものではないかと実は思っている。それぞれの機械に接続してくれるように次の主治医へ伝えなければならない。
 (「三脇康生のフィールドワーク」 第3回 2007. 6. 11 「病院を変わるということ」)



ドゥルーズ/ガタリのいう 《機械 machine》 を、凪において遂行された分析と、それによってのみ生じる越境的な連接の話だと紹介している人は他にいるのだろうか*6。 80年代以来、そんな話だとは理解できずに来たことがひどく悔やまれる。
社会であれ、専門性であれ、いたずらに「順応」を目指すのは、収奪された主体構成を目指すことであり*7、それは臨床的にもみずからの構成を破綻させてしまう。 凪における分析*8は、実際にやってみると戸惑うほどしんどいが、流されたまま破綻して途方に暮れるか、現象学的還元のように向こうから襲ってくる凪に逆らわずしんどい分析で連接を試みるのか。 とにかくしんどいが、後者しかやりようがないのではないか。(無理に順応しようとして、破綻してばかりではないか。) ▼セクシュアリティについて言えば、自意識を温存してナンパ道に邁進しても(参照)、歯を食いしばった順応主義でしかない*9。 そこでは、《凪》が徹底して拒絶されている*10


浅田彰をはじめとするドゥルーズ/ガタリ紹介者には、物語で肩を組む “連接” はあったかもしれないが(そこでイメージされる「機械」はなんと幼稚なのだろう*11)、凪だけがもたらす分析の勤勉なしには連接もないとする、事象の最底辺にまで降りてくる分析の政治性*12はない。 前衛党はみずからを分析しない。 機械にならない。

 宇野邦一氏が『ドゥルーズ 流動の哲学 (講談社選書メチエ)』の中で、いかさまなドゥルーズ=ガタリ紹介者が『アンチ・オイディプス』は精神分析を破壊したなどとデタラメを書いてきた*13ことを修正し、精神分析の可能性を極限まで到達させたと書いていることに注目せよ。 あるいは精神分析抜きのガタリサルトルであることを理解し得ないガタリの翻訳者が大きな顔をして活動家ガタリを語る姿を注視せよ。 80年代の言葉の盗用が終われば遺影を商売にするという訳だろうか? 今こそガタリが「制度を使った精神療法(psychothérapie institutionnelle)」の方法論から持ちこんだ、いわばサルトルを進化させた形での「場の分裂性」の分析(制度分析)をドゥルーズが受けて「自分」が分裂性をもった者になるための分析(スキゾ分析schizoanalyse)をドゥルーズ=ガタリが主張するという経緯があったことの理解を、何年遅れでも深められるかどうかがかかっている。
 三脇康生ラカンラカン派である――ルイ・アルチュセールフロイトとラカン』を読む(下)」*14

怒りに貫かれた分かりにくい文章になっているが*15、要点を編集すると:

 ガタリが「制度を使った精神療法」の方法論から持ちこんだ、場の分裂性の分析(制度分析)ドゥルーズが受けて、「自分」が分裂性をもった者になるための分析(スキゾ分析schizoanalyse)をドゥルーズ=ガタリが主張した



これは、主体構成が分からなくなった者のために凪(なぎ)を用意する分析であって、ラカン的に《孔(あな)》に居直るのでもないし、メタ的内容の王国でふんぞり返るアカデミズムの分析でもない。 凪の場所は、ニヒリズムと酷似しつつ、別の取り組みを準備する土壌や空隙となっている。



*1:図書新聞』2001年9月8日(第2548号)掲載

*2:ジジェクでは、欠如して斜線を引かれた主体(S)が、同じく斜線を引かれた他者(A)と隣接され(SAのそれぞれに斜線)、それが絶対知(Savoir Absolu)のダジャレ的図像になる。

*3:私はアルコールを完全にやめて2年以上経つのだが、その「形式的禁止」において絶大な効果を持ったのがラカンの《孔》の理解だった。

*4:マルチチュード」は、そういうもの以上であり得るのだろうか。

*5:このことは、ひきこもり臨床論に直結する。

*6:三脇自身の文章では、宇野邦一だけがその例外的な一人だとされている。

*7:労働時間を問題にする「搾取」ではなく、「主体そのものが構成できない」という話。 所有と管理が全面に行き渡った社会において、主体は24時間疎外されている。 それに対して “道徳的に” 怒ってみても仕方がない。 ▼教条的左翼運動は、それ自体が慢性的に主体を収奪する。

*8:ガタリの先達にあたるジャン・ウリは、それを「役割にこだわらないための役割の分析」「ただ働き」と呼んでいる(参照)。

*9:今の私は、いまだセクシュアリティとうまく付き合えないでいる。 でも目指すべきは、ナンパではなく、「凪と分析」の方向としか思えない。 それはたぶん、震災時のコミュニケーションに通じている(システムダウンという凪)。

*10:宮台真司に限らず、アカデミシャンには凪(なぎ)への恐怖を感じる。

*11:ナルシシズムの温存でしかない。 それは「表象としての機械」であって、表象を分析するプロセスとしての機械ではない。

*12:貧困は、分析も正当性も保証しない。 富裕者や権力者の具体的言動を批判するべきではあっても、相対的な「金持ち」云々の属性を攻撃することは、攻撃している者自身のアリバイ作りでしかない(そもそも差別だ)。 ▼単に社会的に排除された支援者には、何の力もない。 ここでは、「プチブル的」な自分の現状を恥じる相対的な自意識ではなく、「自分がすでに居るところ」での分析と換骨奪胎が問題になっている。 カテゴリー化された状態像への居直りや差別は、分析の拒否でしかない。――苦しんでいる本人自身が、そのような居直りをやってしまう(cf.斎藤環「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)』)。

*13:ここには丸括弧があり、三脇自身による次の一文が入る: 「関西ではこのような誤解のせいで単純で軽妙な美術ムーブメントが作り出された。リビドー身体は器官なき身体と同じであると昔、書いたその責任者は今では美術を離れ、知らぬ存ぜぬを通そうとしている」

*14:図書新聞』2001年9月15日(第2549号)掲載。▼原文の誤植(丸カッコの位置)を修正し、理解のために「場の分裂性」を鉤カッコに入れさせていただいた。また、原文では「psychothérapie institutionnelle」の訳語として「制度論的精神療法」となっていたところを、最近の三脇自身の訳語提案を参照して、「制度を使った精神療法」とした。

*15:三脇の文体は、既存のアカデミズムや流行言説とは体質ごと異なって感じられる。 そのアレルギー的リアクションは、凪=分析を拒否する「居直り」への怒りに満ちている。 私はここに、不登校や引きこもりにならざるを得なかった自分のアレルギー体質と同じものを見ている。 私の必死の分析は、メタな「知的好奇心」などではない。