「解離という戦略」 → 「解離という戦術的無能力」

けっきょくのところ、自分を戦略的に解体することのできない、ひどく頭の悪い状態。 交渉・契約関係の飛び交うバトル・フィールド(社会)に、むき出しで放り出されることに耐えられない。(だから、コドモ扱い*1してくれる大人たちの用意する庇護の中でしか生きられない。)
ひきこもっている傲慢な外見とは裏腹に、我慢することと、「服従し利用される」ことしか知らない主体。 目の前の状況を切り抜けるために、交渉する能力がない。 ひきこもりは、バトル・フィールドに耐えられないがゆえの「静かな解離」といえるかもしれない(ひきこもることが解離的状況であることは、すでに斎藤環が指摘している*2)。 逆に言うと、解離的であることをやめ、戦術的な振る舞いが可能になることが、そのままひきこもり状況からの離脱を意味する。
ここで、長期的展望を「戦略的」、目の前の現実に取り組むことを「戦術的」とすると、ひきこもりは、いわば「戦略はあるが戦術はない」というような状態。 「非現実的なまでに大局的なレベル」での試行錯誤(というか夢想)はするが*3、目の前の戦いにテクニカルに勝つことはできない。
ひきこもりからの “治癒” は、「戦術行動として抜け出す」という形以外ではあり得ないのではないか。 再帰的な自意識ではなく、戦術的な要請に従って自己が解体され、その解体運営が持続されること。 ▼「治療して抜け出して、そのあとで戦術的に行動する」というのは、何か順番(というかタイミング)を間違ってる気がする。抜け出そうとする行為自身がすでに戦術行動として統御され、計算されていなければならない。――というか、そういう計算において自意識の硬直を抜け出せるようになることこそが「社会化」ではないのか。【順応モデルではなく、戦術モデルとしての「社会化」。】  その「戦術」は、無目的には成り立たない。 解離的自意識に、戦術的行動は無理だ。
意識レベルでいくら解離していても*4、最終的には生き延びる選択をしてしまっているのだから、扶養者からはその戦術ならざる戦術の理不尽さを問われ得る。 



*1:拙著 p.174

*2:ひきこもり文化論』 p.72

*3:選挙での投票率が高いというのも、・・・

*4:解離と言っても、記憶は保たれている。 ▼ただし、ひきこもりが限界的に深刻になっている状況では、言葉が蒸発し、記憶がほとんど残らない。 無時間的な《永遠の現在》を生きることになる。 【参照:斎藤環ひきこもり文化論』 p.90冒頭。 「ひきこもりの時間」に関するこの箇所での斎藤の記述は、恐ろしく真に迫っている。】