「批判されているみたいなので……」

私の批判的エントリーについて、永冨奈津恵氏が真摯なレスポンスを下さっています。
年末の多忙を極める中、ありがとうございます。
以下、補足的に追記しておきます。

  • 永冨氏は、1996年以来、ずっとひきこもり問題の取材を続けておられる方であり*1、その実績と熱意は、疑いようもありません。 私による批判的議論の提起は、そのような敬意と、感謝の念を前提にしています。


  • 氏がひきこもりの経験当事者に、「考えすぎること」の危険を忠告する*2最大の理由は、本人を心配してのことだと思います。 そのことに、議論や本人の「代表機能 representation」をめぐる、公共的な問題意識が絡んでいる。
    • ひきこもりに関する議論、とりわけ「当事者論」では、公共的な問題意識とプライベートなやりとりとが交錯してしまい*3、議論そのものが(そこに関わろうとする誰にとっても)強い苦痛を伴うものになります。 ▼私も永冨氏も、私的な関係性*4をそれぞれに抱えつつ、公の場所で「当事者論」をしようとしているため、お互いの存在が一種の「スケープゴート」になってしまう。 そうした事情への配慮と尊重を踏まえた上で、公共的な議論を続けるべきなのだと思います。


  • 永冨氏によれば、「支援者として誰を選ぶか」で、すでに相談する側のタイプが違っているとのこと。 それぞれの窓口におられる支援者は、自分を頼ってきた人を「That's ひきこもり」と見做すでしょうが、それはすでに選択された結果を見ていることになります。 「ひきこもりは多様である」という命題については、自分の窓口で「2000例以上に対応した」という斎藤環氏や工藤定次氏に加えて、「日本全国の支援団体に取材した」という永冨氏の声を必要とします。 ▼私の議論は、その上で提出する必要を感じているものです。


  • 当事者発言やひきこもり論の《正当性》については、普遍的な論点の雛形として、何度でも繰り返される必要があると思います*5。 今の時点ですぐに決着をつけることなどできませんが、長期的に共有されるべき、重要な論点であると信じます。 そのつもりで、今後も勉強や思索を続けてゆこうと思います。




*1:「10年やってて、ひきこもりがらみの収入は多分、100万円をちょっと越えるぐらいかな」(永冨氏インタビュー)。 取材のための交通費を含む10年間の持ち出しは、100万円どころではないでしょう。 ご自身でも触れておられますが、4年におよぶ都内の勉強会(「ひきこもりを考える会」)への参加も、心理的・経済的負担は並大抵ではなかったはず。 ▼さらに個人的なことを言えば、私はこの「考える会」メンバー(永冨氏を含む)に出会ったことで(2001年春)、大きな恩恵と影響を受けています。

*2:このことは、「再帰性」をめぐる支援論を呼び寄せます。

*3:参照。 【1】【2】では、本人への心配が優先されている。

*4:ひきこもりというテーマにとって、「私的な関係性」が重要極まりないものであることは言うまでもありません。

*5:公的な場で、正々堂々と問題提起してくださったことについて、私はむしろ永冨氏に感謝しています。 「当事者発言」についてこれまでに私を攻撃した人たちは、匿名か、私的な中傷に終始していました。 ▼そのような事情自体が、「ひきこもり」問題に内在的なのでしょう。 これは、ひきこもりと政治の問題として、それ自体を論点化するべきだと思います。