「異様に自由」(traumatic freedom)

「1万円札があってもおにぎり一個買えない」のが、異様に自由だった。 《日常》が壊れて、死と隣り合わせだけど、自分を縛るものがない。 息をするのに、「自分の肺で呼吸している」実感。 規範に締め付けられた無感覚の呼吸ではない。 ▼「蛇口をひねっても水がでない」状況が、規範を無化した。 何もないところに、他者といっしょに放り出されている。 私は、当たり前のように「社会活動」した。 ▼「それ見ろ、ひきこもっていても、生死が懸かったら働けるんでしょ」と言われた。 「兵糧攻めにも効果がある」という意味だろうが、「社会規範が温存されたまま自分だけ飢える」*1のと、「ライフライン=規範が破綻し、地域住民全体が飢える」のでは、状況がまったく違う。 震災時に重要だったのは、「飢える」ことと同時に、「日常が壊れた」ことだった。
私は今でも、精神的にヤバくなると、「今は被災時だ」「対策会議の最中だ」と思い込む。 すると、神経症的空転が治まり、すこし楽になる。



*1:斎藤環氏は、社会的ひきこもりを「状態像への嗜癖」(「苦しくても抜けられない」)として語っているが、薬物依存で言う「底つき(hitting bottom)」というモチーフは、ひきこもりでも絶対に無視できない。→ これも、「強迫観念的合理性の破綻」として理解できないか。