和樹と環のひきこもり社会論(13)

(13)【「社会参加」という信仰生活】  上山和樹

 斎藤さんのおっしゃる「究極の結論」――なぜ究極なのでしょうか――に行く前に、その議論の前提を成す事情説明を、もう少しさせてください。すごく分かりにくい話だし、お互いに勘違いしてるかもしれないので・・・。
 「信仰≒症状」、まさにこれです。これはまさか、「信仰のある人は病人だ」などという話ではない。ここで問題になっているのは、むしろ「自分には信仰はない」と思っている私たち自身のことでしょう。つまり私たちには、そのつもりはなくとも、いつの間にか従っている「考え方の図式」がある。
 斎藤さんは、今年のはじめに出されたご著書『家族の痕跡 いちばん最後に残るもの (ちくま文庫)』(筑摩書房)の中で、「価値観≒症状」という話をされています(p.171)。「価値観≒症状」と言っても、誰か自分以外の人を指差して、「この妙な価値観は、この人の症状なんですねぇ。これは、治療しないといけませんねぇ」などと、一方的にあげつらう話ではない。それどころか斎藤さんは、ご自身を含め、私たちの「全員」を問題にしている。「いったい、自分の価値観≒症状は、どういう事情になっているのか?」――親御さんも、精神科医も、大学教授も含め、私たちの一人ひとりが、それを見つめ直す必要がある・・・。
 これは、ものすごく異様な考え方です。でも、ひきこもりの議論を継続するなら、どうしても必要だと思う。でないといつまでたっても、「治す側が正常で、治される側が異常」という図式から、抜け出せないですから・・・。
 そしてこう考えれば、むしろ引きこもっている人にこそ、「信仰≒症状」が欠けている。つまりひきこもっている人は、もはや「健全な社会生活」を信仰できるほどには、病んでいない。(ひきこもりの親子関係は、いわば異教徒間の宗教戦争のように見えてきます。嫌がる人を無理やり社会参加させようとすることは、「無理やり宗教に勧誘する」ようなものでしょう。)
 しかし斎藤さん、いくら引きこもって醒めているとはいえ、「症状≒信仰と手を切っている」などと、簡単に言えるものでしょうか?