和樹と環のひきこもり社会論(11)

(11)【「メタ信仰学」について】 上山和樹

 率直にお聞きします。斎藤さん、「必然性のもとで行動している人」というのは、「信仰のもとで行動している人」と言い換えてはいけませんか? 「理由が説明できる行動には必然性がない」「説明できれば必然性は消えてしまう」とおっしゃるのですが、これはそのまま、「理由が説明できるものは信仰とは呼ばない」「説明できてしまえば信仰は消えてしまう」と置き換えられる。そしてすぐに気付く気持ち悪さは、斎藤さんがその「必然性=信仰」の説明を、そのまま《症状》の説明にしていることです。本人にとって「これをするしかない」という理由不明の確信を《症状》と呼び、それを「信仰」と等値にしている。
 ありていに言えば、「私はラカン派です」と表明する斎藤さんは、その「理由説明のない唐突さ」の印象からして、まさに信仰告白に見える。ラカン派のことは私もずいぶん前に読みかじったことがありますが、ひきこもりの状態が深刻化するにつれ、そのような知的興味にも絶望し、次第にもう現世への興味を失っていったのでした。
 この私たちの往復書簡は、かつてラカン派や現世への信仰生活に失敗し、絶望しきってしまった私を、「現役信者」である斎藤さんが説得にかかっている図式にも見える。
 考えてみれば、けっきょくのところ斎藤さんのされているお仕事というのは、「信仰を失った引きこもり当事者を、現世参加という信仰生活にひきもどすこと」に見えます。そしてそれはどうやら斎藤さんにとって、「ラカン派」という唐突な信仰告白と結びついている。
 私の知り得るかぎりの知識を動員すれば、斎藤さんのやりたがっているのは、具体的な教義云々ではなく、「信仰による信仰の自己究明」、すなわち「メタ信仰学」でしょう。おそらく斎藤さん=ラカン派は、「信仰としての症状がなければ、この世で生きていくことはできない」と考えている。
 ラカン派や現世に向けていきなり勧誘されても興味を持てませんが、その《メタ信仰学》についてなら、今の私にとってもっとも切実な問題です。