病棟の時間、記述の時間

あるイベントで西村ユミ氏*1は、「二時間かけて患者さんから聴いた話を、五時間かけて言葉にした」とおっしゃっていた*2。 同席していた松葉祥一氏*3村上靖彦*4は、その現象学的記述の細かさをしきりに褒めておられたが、やや疑問が残った。


イベントでは、記述を受けた患者さんご本人のコメントがなかったと思うが、
自分が話したことを五時間もかけて研究されたことを、嬉しく思ったのだろうか。
そもそも、五時間もかけた細かさは、誰のためか。


たとえば精神分析なら、患者さん本人が嫌がっても、分析家の解釈は強硬に主張され、それこそがむしろ必要とされる。分析的な「真理」は、患者さんの主観的承認とは別の回路で承認される*5。 では、現象学ではどうか。


看護師は、病棟内の時間を生きている。「五時間かけて言葉にした」というのは、病棟の時間を無視した、むしろ嗜癖的な逸脱ですらあるかもしれない*6。 病棟の時間と「記述の時間」のバランスを考えなければ、それは現象学的記述への《過程嗜癖*7とすらいえる。現象学という事業の枠内だけでは、そこの評価ができない。


現象学にしろ、精神分析にしろ、記述や解釈の営みをそれ自体として絶対化するのではなく、臨床事業の一部として、全体のなかに適切に位置づけなければならない(disposition)。

それができずに、記述事業や解釈フレームをメタ的に伝授するだけなら、「哲学者」という肩書と「看護師」という肩書が切り分けられた上で、お互いに褒め合い*8、しかし本質的な再アレンジは全くなされない、ということになる。

最悪の場合、現象学的記述事業が現場でそれだけ浮いてしまい、全体の時間が不当に失調することになりかねない。臨床に組み込まれた現象学的記述は、現象学者や看護師のプライドのためではなく、別の機能的位置づけを確認されるべきであるはず。


たとえば西村ユミ氏の言葉は、口頭発表で聞いているときには、明らかに「病棟内の時間」を生きている。 「なるほど、看護師さんが話している」と感じる*9。 いっぽう、ひたすら詳細な「現象学的記述」は、記述過程そのものの自閉的突き詰めになっていないかどうか。


現象学的とされる方法が、看護活動に一定の恩恵を与え得ることは確認できるとして、


「看護師さんが現象学を勉強して、哲学者に褒めてもらった」ではなくて、

    • 看護師が、現象学的記述を武器に、大学や学者の状況に治療的に介入した
    • 現象学者が看護活動を参照しつつ、大学環境を治療した

といった活動こそが要る。*10


私は制度的に看護師でも現象学者でもないが、思想の本をそれでも読もうとするのは、「メタ的な哲学の時間」に自分の生活を適合させるためではない。自分およびその環境の、組み換えのためだ。




*1:語りかける身体―看護ケアの現象学』著者

*2:聴講したのは、2011年9月17日に神戸市看護大学で行われたシンポジウム「メルロ=ポンティと看護」(参照

*3:現代思想2010年10月号 特集=臨床現象学 精神医学・リハビリテーション・看護ケア』で西村ユミ氏と対談

*4:治癒の現象学 (講談社選書メチエ)』ほか著者

*5:たとえばグァタリはそのことを、「既存の解釈格子に閉じ込めるものでしかない」と批判した(大意)。 ここでは、記述事業の勤勉さの設計ぐあい、正当化のスタイルそのものを問うている。たとえばフッサールにとって、現象学的な記述という自分の事業が現れていることそのものは、どう位置づけられていたのだろう。

*6:状況によっては、たとえば記述は二時間で切り上げ、残りの三時間は病棟管理に回ったり、あるいは睡眠をとるべきだったかもしれない。

*7:依存症はとりあえず、「物質嗜癖」「過程嗜癖」「関係嗜癖」に分けて扱われる(参照)。

*8:(1)医師に比べて低く見られがちな看護師はアカデミズムの権威を得、(2)社会的に無意味と見られがちな哲学者は「患者さんのためになっている」という承認を得る。 内在的再アレンジで相互に豊かになるのではなく、お互いを保守的に守ったうえで承認し合ってるだけ―― そうなっていないかどうか。

*9:私が関心をもつ「制度論的な精神療法」にも通じる、きわめて柔軟な配慮に満ちた、リアルタイムの問題意識。

*10:さまざまな大学や学会は、メンタルヘルス的にたいへんまずい状態にあるように見える。