健康をもたらす《診断=分析》の条件としての délire

http://togetter.com/li/269673 より:

これに関連して、


ドゥルーズ批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)(序文)を邦訳どおりに引用し、それを原文Critique et cliniqueで確認してみる。 太字赤字の強調は引用者だが、「斜体+下線 」のみ、ドゥルーズ本人がイタリック体で強調している箇所。

 〔・・・・〕 それは、書くこと の問題である。作家は、プルーストの言うように、言語の内部に新しい言語を、いわば一つの外国語=異語を発明する。彼は、文法上あるいは統辞法上の新たな諸力を生み出すのである。彼は言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出す。つまり、言語を錯乱させる のだ。のみならず、書くことの問題は、見ること聴くこと の問題と分かち得ないものでもある。 なにしろ、言語の内部にある別の言語が創り出されるや、「非統辞法的」で「非文法的」な臨界へと近づき、あるいは自分自身の外と交感するようになるのは、言語の総体なのだから。
 臨界は言語活動の外にあるのではない。それは言語活動から生ずる外なのだ。すなわち、臨界はさまざまな非−言語的な視覚と聴覚から成っているのだが、それらの視覚と聴覚を可能にしてくれるのはただ言語だけなのである。 〔・・・・〕 作家の一人ひとりについて、こう言わねばならぬ――彼は見者であり、聴く人、ただし「見まちがい言いまちがった」人であり、色彩画家にして音楽家なのである、と。
 それらの視覚、それらの聴覚は、私的な事柄ではない。そうではなく、絶えず再発明される(歴史)と地理とをそなえた形象の数々を、それらはかたちづくっているのだ。錯乱こそが、世界の端から端へと言葉を運び去るプロセスとして、それらの形象を発明する。それは言語活動の境界線上における出来事なのである。しかし、錯乱が臨床的状態に 陥ってしまったら、言葉はもはや何ものにも到達することはないし、人はもはや言葉を通して何一つ聴くことも見ることもない――みずからの歴史と色彩と歌を失ってしまった夜のほかには。つまり、文学とは健康であることなのだ。

 Le problème d’écrire : l’écrivain, comme dit Proust, invente dans la langue une nouvelle langue, une langue étrangère en quelque sorte. Il met à jour de nouvelle puissances grammaticales ou syntaxiques. Il entraîne la langue hors de ses sillons coutumiers, il la fait délirer. Mais aussi le problème d’écrire ne se sépare pas d’un problème de voir et d’entendre : en effet, quand une autre langue se crée dans la langue, c’est le langage tout entier qui tend vers une limite « asyntaxique », « agrammaticale », ou qui communique avec son propre dehors.
 La limite n’est pas en dehors du langage, elle en est le dehors : elle est faite de visions et d’auditions non-langagières, mais que seul le langage rend possibles. 〔....〕 C’est de chaque écrivain qu’il faut dire : c’est un voyant, c’est un entendant, « mal vu mal dit », c’est un coloriste, un musicien.
 Ces visions, ces auditions ne sont pas une affaire privée, mats formentles figures d'une Histoire et d'une géographie sans cesse réinventées. C'est le délire qui les invente, comme processus entraînant les mots d'un bout à l’autre de l’univers. Ce sont des événements à la frontière du langage. Mais quand le délire retombe à l’état clinique, les mots ne débouchent plus sur rien, on n'entend ni ne voit plus rien à travers eux, sauf une nuit qui a perdu son histoire, ses couleurs et ses chants. La littérature est une santé.



この délire を「妄想」と訳してしまうと、《発明の条件》というニュアンスにならない。
いや、なるだろうか?*1  délire は「臨床的状態に陥ってしまうと」ダメだが、
délire にもたらされた文学は、ひとつの《健康》だという。


ドゥルーズは、以下のような話をしている。

 langue が/を délirer  作家的創造  健康化

délirer の 受動/能動 が微妙だが、délirer なしには、創造も健康もない。


あるいはドゥルーズは、次のように言っている(強調は引用者)。

 大作家や、大芸術家は病人だという意味ではありませんよ。卓越した病人と呼べば褒め言葉に聞こえるかもしれませんが、それでも彼らが病人だということにはならないのです。作者の心に神経症や精神病の痕跡をさぐり、それを作品に隠された秘密とみなし、作品の謎を解く暗号の鍵にするのともちがいます。彼らは病人であるどころか、逆に医師であり、しかも医師としてのあり方がかなり特殊なのです。*2 〔・・・・〕 マゾッホは偉大な症候学者〔symptomatologiste〕なのです。プルーストの場合は、記憶の探索をおこなっているのではなく、ありとあらゆる種類の記号に目を向け、環境、記号の発信様態、記号の素材、記号の体制に照らして記号の性質を解明することが作家の責務となっている。『失われた時を求めて』はひとつの一般記号学であり、さまざまな階層に分かれた社交界を診断する症候学〔symptomatologie〕でもあるのです。力フカの仕事は私たちの行く先々にひそむであろう悪魔的な力を、ひとつ残らずつきとめた診断〔diagnostic〕です。ニーチェがいうように、芸術家や哲学者は文明の病を見極める医師なのです。何がどうなろうと、彼らが精神分析にあまり興味をもたないのは、けだし当然といえるでしょう。精神分析は秘密なるものを極度に単純化し、記号も症候もさっぱり理解できないので、一切合財をロレンスが「ちっぽけでしみったれた秘密」と呼んだものに帰着させるわけですからね。

 単に診断をくだすだけではありません。記号はさまざまな生の様態、さまざまな生存の可能性をあらわすことで、ほとばしる生の、あるいは涸れた生の症候となるのです。ところが芸術家は、涸れた生に甘んじることも、個人の生活で満足することもできない。自分の内面、自分の記憶、自分の病を語っても書くことにはならないからです。書くという行為には、生そのものを変容させ、個人を超えた何かにつくりかえよう、生が閉じ込められていたら、そこから生を解き放ってやろうという明確な意図がある。芸術家や哲学者は健康状態がすぐれなかったり、からだが弱かったり、精神的に均衡がとれていなかったりすることが多いですよね。スピノザニーチェ、あるいはロレンスのように。けれども彼らを最後にうちのめすのは死ではなく、むしろ彼らがその存在に気づき、身をもって生き、考え抜いた生の過剰なのです。 (『記号と事件―1972‐1990年の対話 (河出文庫)』, pp.287-289)



ここには、

 délire を条件とする 《診断分析創造》 は、内在的に臨床的である

という理解がある。

ここで私が持ち出した臨床は「床に臨む」ではなくて、苦痛緩和や《健康化》のニュアンス。*3
しかもその恩恵は、相手や周囲に対してだけでなく、やっている自分に対しても生じる。*4

    • 《過程》に最大の力点を置く psychothérapie institutionnelle(参照)は、ここで理解される。 制度分析の分節プロセスそのもの、あるいはそれを通じての制度改編事業は、分析や改編を引き受けた患者のみならず、参加するスタッフにとっての恩恵をも伴う。 単に「患者を治す」のではない。*5



langue がスタティックなルーチンをこなすだけでは、その場に必要な《診断=分析》は行なえない。
délire は、診断の《結果》ではなくて、必要な診断をおこなうための《条件》となっている。



*1:むしろいま気になるのは、ドゥルーズ/ガタリ論周辺にある、極端な「思い込みの激しさ」だ。

*2:別の機会にも、同様のことを語っている(参照)。

*3:上の引用でドゥルーズのいう「臨床的状態に陥ってしまったら」は、「病気になっちゃったら」でしかない。

*4:結果としての恩恵だけでなく、プロセスそのものとしても

*5:ただしジャン・ウリの活動は、病院内に限定される ガタリは社会全体へ