身近で生きてしまっている関係実態にこそ、思想と社会が表現されている。

白井聡氏『「物質」の蜂起を目指して――レーニン、〈力〉の思想』p.318 より:

 フロイトによる「無意識の発見」とレーニンによる「新しいタイプの党」の発案(『何をなすべきか?』)は、ほとんど同時になされた。このことは何を意味するのであろうか。精神分析とボリシェヴィズムは、その創始者同士がそれぞれ他方に対して懐疑的であったにもかかわらず、異様なほど似ている。両者ともその第一義的な拠点が「抑圧されたもの」に置かれていたこと、「分析家−患者」の関係と「党(指導者)−労働者大衆」の関係、そして、分析家間−党内での絶えざる論争、分派の形成といった組織の在り方までが類似している。
 レーニンの政治とは、まさにフロイトが「無意識」と呼んだものに働き掛けるものであった。この「無意識」とは、マルクス主義の文脈においては「階級意識」にほかならないゆえに、ロシア革命から程なくして、ジェルジ・ルカーチが革命の経験の哲学的総括として『歴史と階級意識』を執筆し、労働者階級の「階級意識」の弁証法的発展を論じることにもなる。



曝露」(國分功一郎氏)より:

 白井君は、レーニンが「暴露」という手段を重視していたことに注目しています。
 「暴露」というのは社会の底辺にいるひとたちが蒙っている様々な不正を
 社会に対して明らかにしていくということです。



曝露といっても、芸能レポーターみたいなことでなくて、「分析こそが暴露」ということ*1
たんに公表が禁じられると同時に、事実関係の分析が、その場を支配する規範に禁じられることがある。その分析を禁じられることが神経症的消耗の理由だったりする*2
だから分析をかたちにすることが欲望の道だし、ドゥルーズ/ガタリの「逃走」「欲望機械」とは、禁じられた分析をかたちにしてしまうことだと理解している。


そこで、分析の方針そのものが集団をかたちづくる。
ラカン派は教団化した。 ドゥルーズ/ガタリは、つながりかたのレベルに照準した(参照)。


論じている自分は一定の党派性を生きざるを得ないし、すでに生きている関係がお互いに何を押しつけ合っているか、そこを言葉にすることを許す関係こそが必要に思う。 「私のことをぜんぶ受け止めてほしい」じゃなくて。



*1:のぞき見趣味を満たそうとするだけの人たちは、自分のはまり込んでいる規範を分析しない。そうして、じつは既存の規範を強化する。

*2:ほんとうに必要な分析を禁じられたまま、カテゴリー的自己確認ばかりを強いられるのがDSM-IV