人為的に改善できる部分と、「人間の条件」を混同しないでほしい

日本裁判官ネットワーク」に掲載されていた、
匿名の裁判官による記事「事実と真実の間」より(強調は引用者)

 ・・・・小説の中でも「控訴して傷害致死で争え」という意見が紹介されているから、作者(アドバイスをした法律専門家)も、「真実」が傷害致死である(被告人には殺意はない)ということは念頭にあったものと思われる。にもかかわらず作者は、裁判官に右のような判決を宣告させ、主人公の被告人は、その宣告直後に、「あなた方は何もわかっていない」と大暴れをして退廷命令を執行されてしまう。
 この「何もわかっていない」という激白は重要である。事件の本人とその話にずっと付き合ってきた読者は、細部にわたる真実を「わかっている」のである。しかし、その「真実」は、その中から、犯罪の構成要件に該当する事実(専門的には「公訴事実」という)のみを抽出し、その事実が法廷に提出される証拠だけによって認定できるか否かを判断する刑事裁判の手続きを経ると、真実とはかけ離れた「事実」に変貌する。連載終了(平成一八年一月三一日)後に振り返ると、裁判開始までに読んだストーリーをすべて忘れて法廷に提出された証拠だけに基づけば、私も小説の中の裁判長と同じような判断をしたかもしれないと思うのである。ここに、事実と真実との落差がある。裁判所の前で、マイクを持った犯罪報道のアナウンサーが「これから裁判の場で真実が明らかにされることが期待されます」と話す姿をよく目にするが、そのほとんどは期待外れに終わっている。

 あと三年後に導入される裁判員制度の下では、法廷での証拠調べの時間とそこに提出される証拠の量は、今と比べて格段に少なくなる(裁判員の負担を軽くするために是非そうしなければならない)から、期待外れの度合いはますます大きくなるであろうしかし、刑事裁判における事実認定とは、もともと生の真実を解明するものではなく、あくまで、検察官が主張する「公訴事実」が法廷に提出される証拠で認定できるか否か(その認定に合理的疑いを容れる余地がないかどうか)を判断するものなのである。



赤字で示した、「しかし」という接続詞の意味が分からない。
裁判員制度の導入によって冤罪や誤判は増える」という予測が、「真実と事実は違うのだ」という一般的な事実認定論*1と混同されている。
制度設計のミスが、自然事実のような条件といっしょくたに論じられている。 私自身は、裁判員制度にも積極的意義を見出したいのだが*2、こんなロジックで制度を弁護されてはたまらない。



*1:「人間の条件」にも関係するような、司法過程や手続きの限界に関する議論

*2:長期的には、《読み合わせ》の形で成熟しないだろうか、など