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- 「シノドスの動機と方針」 対談:芹沢一也×荻上チキ
芹沢一也氏と荻上チキ(id:seijotcp)氏が、新しい活動を立ち上げられたとのこと*1。
ここで語り合われていることが、読み手の姿勢を問い直すことになると思います。 リンク先より、刺激を受けたところを引用させていただき*2、少しだけ自分の意見を書いてみます(強調は引用者)。
芹沢: 高原基彰さんが『不安型ナショナリズムの時代』で、日本のポストモダニズムを社会的・経済的文脈をまったく度外視した言説だとして、浅田彰さんから宮台真司さんにいたる流れを抑えています。高原さんは「コミュニケーション領域を語れば世界を語ったことになるという錯覚」という表現を使っていますが、要するに80年代、90年代は文化論の時代だったんですよ。文化を語ることで、社会を語るというスタイルが通用していた。
ところが、2000年代に入って、そうしたスタイルが決定的に説得力を失いました。例えば雇用の問題でも犯罪の問題でも、80年代、90年代は文化やコミュニケーションの問題として語ってきたわけです。
芹沢: 語る言葉がない状態で新しいものと向きあっても、一度語ってそれでおしまいになりがちです。「現実」にベタっと密着して、そのことを語りさえすればいいということになる。 (略) そこで必要なのは理論であり思想なんだけれど、それが不在だから何とかしたかった。
芹沢: シノドスのセミナーでは、「現実」を伝えてくれるような方をお呼びしてきました。 (略) 「現実」が「現実」として露呈するのを、文化論が妨げてきたという経緯もあったので、そのあたりのことをお聞きしたいというのもありました。
荻上: 「文化で社会を語れなくなった」ことに対する反動として「現実」だけを指摘し続けること、「現実」と向き合わずただ慣性のままに理論を唱え続けること、そのいずれも疑問を抱いていたわけですね。 (略) シノドスセミナーにお呼びしている方々は、その分野についての専門家でありながら、その専門を成り立たせている土壌そのものについても問い続けているような方が多い。
芹沢: ただたんに「現実」を持ち出しても生産的ではないし、すぐに最初もっていた現状批判としてのインパクトを失うでしょう。そうしたなか、おっしゃるように今は疎外論的なフレームが強くなってきていますね。だから、思想や理論といったメタ言説の必要性についても、いまこそ再度考えなくてはいけない。
荻上: 現実を観察しないメタ言説、メタ言説と結びつかない「現実」という言葉。いずれも効果を発揮しがたく、最終的にはトライブ同士の泥合戦になってしまう。
芹沢: あるテーマとあるテーマを、即物的に同じ空間に並べるだけで解決する問題もあると思いますよ。
芹沢: なんだかんだいっても、日本社会では今でも正社員のみが市民です。大学院生や研究者も、大学の教員になることしか頭にない。これは実は根深い問題です。「多様性」って、口でいっても実現できない。
芹沢: だから僕たちは大学の外にチャンネルを作る。寄稿してくれた方には、身分を問わず某老舗思想雑誌以上にお金を払いますし(笑)。それこそ言論の価値を高めるために、ちゃんと経済的な循環を作りたい。手弁当主義は批判し、きちんとお金を出せるように工夫する。
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- 御意。 すごく重要で、すごく難しい核心部分をおっしゃっている。