「分析が欠けている」

「差別される可能性のある人は、場合によっては過去や属性を隠して生きる必要が出てくる」*1と言ったら、左翼系の男性から悪く言われた。 「そんなのは間違ってる。何でも言える社会でなければ」。 理念としてはそうだと思う。 でもその人は、差別とは違う問題で人に言えない過去がある(ひどいいきさつで女性を傷つけた)。
左翼系の人は、「○○であるべきだ」と強硬に主張するばかりで、その主張の陰に隠れて悪さをする。 強硬な主張は、自分の悪さを隠蔽するためになされている面すらある*2
べき論も、学問のプロジェクトも、それを標榜する自分自身への分析を欠いている。心理学化する自己分析が必要なのではない。自分がどう自己を成り立たせ、バランス維持や人間関係をどうしているのか、そのマネジメントのスタイルが(場所として)分析されるべきなのだ。それは多くの場合、失態やトラブルを通じて明らかになる(分析の事後性)。
左翼が思い込んでいるようなヘゲモニー争いの問題ではない。 起こった事実は、分析の素材だ。 分析のできない者が、硬直した「正義の味方」になって勝ち誇る。
「他者が欠けている」*3と語ったラカンに模して言えば、「分析が欠けている」。 労働行為として遂行されるべき、分析の労務が廃棄されている*4



*1:ひきこもりもそうだ

*2:とはいえ、強硬な主張の中身自体は重要だったりするのだけれど。柄谷行人なら「統整的理念」と呼ぶ話だ(参照)。

*3:L'Autre manque. Ça me fait drôle à moi aussi.」(参照)。 大まかに訳せば、「他者が欠けている。私も奇妙だと思う」

*4:【参照:「スキゾ分析の「分析」の強調と、当事者的な分析労働について」】