提案:かつての担任を交えたプログラム

6月1日、兵庫県豊岡市の保健所にお邪魔したのだが、その際に同行いただいた方と話していたら、私の小学校時代の担任教師の近しいお友達だということが判明。保健所で私が席をはずしている間に直通で電話連絡を取ってくださり、26年ぶりに、当時の担任教師と話すことができた(声がまったく変わっておられなかった)。
それからしばらく、なんだか精神に地殻変動が起きたような状態になって、良くも悪くも戸惑った。いや、結果的には必要な動揺だったと思う。目の前に転がる鉛筆をみる目が、小学校時代のあの感覚を思い出している。
それで思いついたのだが、かつて関わりのあった教師が、ひきこもっている本人のカウンセリングや、社会生活を取り戻してゆく支援事業の取り組みに、協力するプログラムはあり得ないだろうか*1
今の私は、ひきこもり支援の目的を「本人の交渉能力を高めること」*2と考えているのだが、心理的な劇薬ともいえる「かつての担任」は、交渉能力の訓練にとって、非常に重要な存在ではないだろうか。
ひきこもっている人にはかつての担任に悪感情を持っている人が多いが、逆に、過剰な罪悪感に苦しんでいる人も居る。責任を追及される面会案に応じてくれる教員は少ないかもしれないが、親御さんや支援者が「担任への反論(あるいは謝罪)を支援する」という形が、人のつながりや社会的権限をわかりやすく具体化し、本人の無力感を緩和することはないだろうか。
面会といっても、すべて本人に都合よく進むわけではない。あくまでフェアに。また、話しているうちに誤解が解けたり、罪悪感が解除されるかもしれない*3
しかし・・・、そもそも私がかつての担任と話ができたのは、今の私が曲りなりに社会参加できているからだと思う*4。 今回お話できた先生は、私にとってはいい思い出として語れる方だが、ひきこもったまま38歳になっていたら、合わせる顔がなかったと思う。その「合わせる顔がない」という羞恥心の感覚が、またさらに社会に踏み出せない理由になる。
ひきこもりでは、無力感が傷になっている。見ず知らずのカウンセラーと1対1の面接をするだけでなく、心理的にヤバイ存在であるかつてのキーパーソンとの関係を調整することに、意味はないだろうか。実際に面会することは無理でも、そのプログラムを具体的に検討することに、地殻変動のきっかけがないだろうか。



*1:教員以外にも「かつてのクラスメイト」とか、「いじめの犯人」とかもあり得るが、プログラムに協力いただくことを考えると、担任等の「教員」が最も現実的な検討枠に思える。

*2:交渉能力を高めるには、単に法律の知識云々だけでなく、心理的な要因(本人にとってのリアリティ)や、社会制度の整備、人間関係の構築などが重要だ。

*3:罪悪感は、往々にしてそれ自体が自我肥大ゆえだ。

*4:それに、仲介くださったのは、私の活動を評価くださっている方だ。