「社会の矛盾」と、全員の当事者性

摂食障害は問題なのか?」(iDESさん)

 摂食障害というものを考える時に、何が何でも治療だという姿勢には反対である。ひとまずは、摂食障害であっても良いじゃないかという受容が何よりも必要なことである。その上で、本人の状態が少しでも良くなるならば、良い状態になった方が良いし、そのためには摂食障害から離脱していくことが望ましい。個々のケースに関しては、受容の上での問題化をしていくことが最良だと個人的には思っている。
 個々のケースに関しては、一見矛盾したものを時間差で行うことになる。しかし、社会的にはもっとシンプルである。摂食障害は器質的な問題によって起こるものではなく、文化的・社会的なものによって起こる。文化的・社会的な問題を抱えた現代社会において、生きづらさを抱え摂食障害と呼ばれる事態に陥っている人たちが非常に多くいるということは、社会の中に矛盾があり、社会が生きづらさを生み出しているということである。従って、社会の矛盾点を正す必要があり、このためには「摂食障害は問題である」と積極的に言っていく必要がある。これは、矛盾も諦念もなく、明確に言えることである。

ひきこもりについて考えるときにも、たいへん参考になる。
難しいのは、そこで指摘されるべき「社会の矛盾」を、具体的に分節することだ。たとえば、「社会が悪い」という言い方は、ほとんど何も言っていない。そのように語る者も、社会の恩恵を受け、社会の一部(当事者)として生きている。苦しんでいる人間を「当事者」として切り分け、それを良くも悪くも差別することで――逆に言うと誰かを悪者にすることで――いきなり何かを語った気になるというよりも、むしろ全員が「逃げられない当事者性を抱えている」として、その当事者性の分析において、全員の取り組みが(そのフレームの換骨奪胎が)模索される必要がある。「自分は100%正しいがお前は間違っている」などと言えるメタな立場は、とりあえずのミクロな場面ではともかく、長期的な取り組みの図式としては、稚拙すぎる*1
「私たちは、すでにどのように取り組んでしまっているのか」が、本人にも周囲にも問われるべきだ*2



*1:べき論を主張する人間は、自分のことを棚にあげて人を見下す人間であり得る。 「正義の味方」も、当事者だというのに。

*2:「制度分析と自己分析」を必須とする制度論的精神療法(psychothérapie institutionnelle)は、そのような問題意識を持っているように見える。内面的・制度的に生きられているスキームの自己検証を、全員が遂行すること。 「医師が患者を治す」という一方的な図式ではなく、医師の立場にある者にも、自己分析と制度分析が要求される。