欲望の倫理と「構成の自由」

私が拙著や当ブログで試みているような膨大な言説努力に対して、その価値を「ジャンルとして」否定されたことがあった。 「能力が低いからダメ」なのではなくて、努力の方向性として意味がない、「科学ではない」と。

 「あなたの言説の動機づけは病理的もしくは単なる怠惰であり、あなたが構成した言説は、正当性の手続き(ディシプリン)を踏んでいない」 「病んだ動機づけに導かれた言説は、病んだ真理を構成する」(大意*1)。

伝統的な手続きの動機づけに失敗した場合には、自分独自の仕方で執着心を生きてみてはダメなのか。
――これが、私が斎藤環氏のジェンダー論から読み取った問題構成だった。


斎藤環バックラッシュ精神分析*2より。 (強調は引用者)

 だからこそ「ジェンダー」は、つねにすでに本質的な属性であるかのように、その都度構成されるのだ。 断っておくが、これはけっして「科学の言葉」ではない。 「つねにすでに」という奇妙な常套句にあきらかであるように、精神分析が依拠する構造的因果性は、事例の一回性から普遍性を導く「事後性」において、「予測」を旨とする科学的因果性とは手を切っているからだ。 しかし私は、この「事後性の領域」こそが、「ジェンダーの科学」の本質であると確信している。 もしそうであるのなら、ジェンダー理論における精神分析の重要性は、もはや揺るぎないものとなるだろう。 (p.117)


 私の考えでは、こうした(殺人をできなくする*3)「定位脳手術」への違和感と抑止を可能にするのは、まさに精神分析的な倫理をおいてほかにない。 なぜなら精神分析は、その都度すでに構成されたものとして倫理観を解釈するのであって、そのさい「構成の自由」は、つねに最大限に確保される必要があるからだ。 「定位脳手術」は、この「構成の自由」を制限するがゆえに禁じられなければならない。
 ちょっとわかりにくいだろうか。 ここで私のいう「構成の自由」を、ジェンダーの自由と言い換えるなら、もうすこし話はクリアになるだろう。 一般にジェンダーの選択は、自由であって自由ではない。 それというのもセクシュアリティは、主体に対して、つねにすでに構成されたものとして立ちあらわれるほかはないからだ。 そこに自由意志の働く余地はほとんどない。 (p.119)

ここで「構成の自由」と言われているのは、
「いくら逸脱して見える動機づけ*4であっても、いったんは構成される自由がある」という意味だと思う。
それは欲望の自由の倫理であり、彼は「ジェンダー」を、

     事後的に発見される《欲望=動機づけ》の構成のされ方 

として理解しているのだと思う。





*1:ここでの議論にふさわしく、論点を単純化して析出している。

*2:バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』 p.102〜120

*3:上山・注

*4:原文で斎藤氏が想定しているのは、「殺人」だ。 ▼同様にして斎藤氏は、「ニートや引きこもりになれなくなる脳手術が開発されたとして、その手術は許可されるべきであるか」と論じたことがある。 斎藤氏の立場は「NO」。