「分析スタイル」の相違について

三脇康生氏から、次のようなお話をうかがう機会があった(許可を得て掲載する)。

  • ガタリが「スキゾ・アナリーズ(schizo-analyse)」と言うとき、本当に問題になっていたのは、語句後半の「アナリーズ」のほう。 しかし1980年代には、前半の「スキゾ」ばかりが流行した(浅田彰など)。 ▼ドゥルーズガタリが言っていた「アナリーズ」とは、「ベタとメタの往復」のこと。 単なるベタな「差異と連帯」(肩を組もう)ではない。

これは・・・・
ここ最近考えていた「自己分析」ということ、あるいはさまざまな議論が、
「分析のスタイル」*1という一つのモチーフに、まとめられた。
メモ的に記しておく。

    • 「スキゾ」「横断性」といった(80年代に流行した)ドゥルーズガタリ理解で考えてしまうと、彼らとラカン派との確執も非常に単純に見えてしまう。 しかし、本当に問題になっていたのは、「分析(analyse)のスタイル」ということだったらしい「分析」ということで何を考えるかが、思想や流派によって違っている。 どのようなスタイルの分析を選択し採用するのかが、その言説フィールドにおける権力を構成するのだと思う。
    • たとえば英米系哲学(分析哲学)から見れば、ハイデガー哲学はガラクタの山であり、「詩的な作品」でしかない。 それは「分析」ではない。 ▼あるいは「科学者」は、サイエンスという独特の「分析スタイル」を持ち、これに固執している。 ▼ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』を著したが、たとえば科学でも、「結果が間違っている」ということはいくらでもあり得る。 あの本で本当に問題になっていたのは、「一つ一つの結果」ではなく、「分析のスタイル」だった。
    • 昨年12月の「ゼロ年代の批評の地平トークセッションでは、社会変革へのベタな取り組みの不可能性から、ネタ的な知的分析がえんえんと続く若手知識人の状況(メタ分析のネタ化)が問題化されていた。 「分析して、で、どうすんの?」という素朴な問い。



自分の実存とミッションとの掛け合わされた事情(現実)を当事者的に分析する自己分析は、どうしても必要ではないだろうか。 その熱意と「必要」においては、シニカルな態度が介入する余地はあるだろうか? ▼トラブルが起こっているのに、そのトラブルに、自分の怒りに、シニカルになることができるか。【たぶんできる。でも、それを選択するか。】



*1:強いてフランス語にすれば、「le style d'analyse」だろうか。 ▼検索すると、「l'analyse de style」(文体分析?)はいくつもヒットするが、「le style d'analyse」(分析のスタイル)は事実上一つも出てこない。 なぜだろう・・・