三脇康生氏から、次のようなお話をうかがう機会があった(許可を得て掲載する)。
これは・・・・
ここ最近考えていた「自己分析」ということ、あるいはさまざまな議論が、
「分析のスタイル」*1という一つのモチーフに、まとめられた。
メモ的に記しておく。
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- 昨年12月の「ゼロ年代の批評の地平」トークセッションでは、社会変革へのベタな取り組みの不可能性から、ネタ的な知的分析がえんえんと続く若手知識人の状況(メタ分析のネタ化)が問題化されていた。 「分析して、で、どうすんの?」という素朴な問い。
自分の実存とミッションとの掛け合わされた事情(現実)を当事者的に分析する自己分析は、どうしても必要ではないだろうか。 その熱意と「必要」においては、シニカルな態度が介入する余地はあるだろうか? ▼トラブルが起こっているのに、そのトラブルに、自分の怒りに、シニカルになることができるか。【たぶんできる。でも、それを選択するか。】
*1:強いてフランス語にすれば、「le style d'analyse」だろうか。 ▼検索すると、「l'analyse de style」(文体分析?)はいくつもヒットするが、「le style d'analyse」(分析のスタイル)は事実上一つも出てこない。 なぜだろう・・・