《当事者》における、「権威性=自由」の限界設定・・・・の難しさ

以下は、そこから連想して私が勝手に考えたこと。

「当事者」を、「不自由」との関係において考察すること。

当事者のためになることをする、とは、不自由にあえぐ人に、自由をもたらすことである。
医師がもたらす自由も、たしかにあり得るだろう。
《当事者》の権威性が嫌われたり恐れられたりするのは、そこに限界設定が見えないからではないか。 *1
各ジャンルの事情によっては、「自由」は当事者本人の命に関わることもあるだろう。おそらくこの場合、「生き延びなければならない」という医師の職務上の絶対命題のもと、「当事者の自由」は「なかったこと」になり、「いかにして生き延びさせるか」の“治療プログラム”だけが進行するのではないか*2。 【そこでは「当事者の発言」は、治療プログラムを阻害するノイズでしかない。当事者に対する権威性の付与は、治療プログラムと、それに従事する者の職業的専門性を破綻させる。おそらくはそこにカオスへの恐怖が生まれる。】
「自分は当事者だから何を言ってもいいのだ」、「自分の自由はどこまでも無際限に追求されるべきなのだ(たとえそこに死が掛かろうとも)」といった状態が予想されては、おそらく受容されることは難しい。*3

    • ただし、「死を求める自由」については、それ自体としては(理念としては)、その権利を確保すべきではないか。 そこでのみ可能になる、そして必要でもある議論がある。

むしろ、「そのジャンルの当事者」としてはどこまでどのような内容において「自由」が認められ得るのか、追求され得るのか、その限界設定が、協議の上で検討されるべきではないか。▼しかし現状では、当事者側の発言権は極端に弱い。そもそも「交渉相手」ではあり得ないほどに。

    • 当事者自身の実力不足も、もちろんその理由として挙げていい。ただしこれまでは、「当事者として発言する」という課題設定自体があり得なかった、だから能力養成自体がなかったのだ。「できない」のは、環境によって能力育成を阻まれてきたせいでもある。▼発言権の獲得には、やはり「闘い取る」という要素がある。ただし、そのような権限を主張する以上は、たいへんな責任が生じる*4。――当然ながらこの話を、私は自分のこととして語っている。

「治す」だけでなく、《交渉》という要素を入れられないだろうか、「当事者」という問題において。
そこには、《自由》に関する政治哲学は関係しないのだろうか。



*1:しつこいようだが、これは私が《当事者》というポジションの果たす機能について一般的に考察しているのであって、岸さんのレポートにある個々の発言について論評しているのではない。私は、摂食障害をめぐる事情について、ほとんど何も知らない。

*2:この箇所をはじめ、このエントリーにおける私の見解表明のいくつかは、某所での斎藤環さんの発言を参照している。これについては、いつか『論点ひきこもり』のほうで発表予定。

*3:「当事者」には、たとえば「免許」に相当するような、発言をめぐる制度的制限がない。岸政彦さんが指摘するように、当事者は「当事者であること」のみを根拠に語る。これは社会的な発言ポジションとしてはきわめて特異なのではないか。

*4:そのような責任を担いたくないために、全権委譲を選択する人もいるだろう。もちろん、それも選択肢の一つではある。