「生き延びる」という趣味的選択?

私の「患者に益すること」というエントリーに対し、id:hotsuma さんより、「うつ病は診断されねばならない。」というレスポンスを頂きました。*1

 まず、うつ病の概念について。 「自殺念慮(既遂)=鬱病」ではない。 (中略)
 次に、精神科医が診断をする目的について。 診断は、1)自然経過の予測、2)特定の治療への反応性の予測のために行われる(そして「診断名を与えること」は一部の患者にとって明らかに治療的である)。



自殺念慮(既遂)=鬱病」ではない、という点については、またあらためて「うつ病とは」という観点から勉強してみたいと思います(ご教示ありがとうございます)。
次の「診断する目的」ですが、私は「診断や加療に意味がない」と言ったのではなくて、「延命目的の治療から遁走してしまう人」あるいは「自殺念慮への“治療”効果が出ない人」はどう考えればいいのか、ということを問題にしたつもりでした。
id:hotsuma さんのお立場では、治療放棄や自殺念慮自体が「治療対象」なのだと思います(医師のお立場として十分納得できます)。 つまり「ひたすら治療に専念することが、患者の益になるのである」と。 しかし私としては、その発想の限界を問題にしたかった。


「治療」は、治療した先に「望ましい状態」が待っていなければならないと思いますが*2、本人が「(人生に取り組むのが嫌になっているなどで)治った状態を望まない」、あるいは「治療そのものを拒否する*3」という場合、医師の側から「治った*4状態こそが患者の益だ」という判断から、治療行為を強要できるでしょうか。 もし「生き延びようとすること」が義務ではなく趣味的選択でしかないなら、自分の置かれた惨めな状況――少なくとも主観的に耐えられず、さしあたり改善不可能に見える*5――を拒絶する権利も、本人には残されているのではないか。 自由意志にとって、生き延びようとすることは(自分の利益を無視してでも遂行すべき)義務なのか、それとも個人主義的な利益追求的選択なのか。 「どのような状況にあっても、君は生き延びようとするべきだ、いやするはずだ」と言えるのか。 相手(患者)の置かれた環境や主体的意思に関係なく、「君は生き延びねばならない」と命令できるか*6


あるいは、治療に効果がなく、自殺念慮への対処に失敗した場合、「あなたは鬱病です」という診断そのものには意味がない*7。 「治療努力をしても効果のない事例がある」こと自体は仕方のないことですが、その場合の現実問題として、相談者(患者)が苦痛と自殺念慮を抱えたまま、「無理矢理に周囲の意思によって延命させられる」ことになる。 それは患者の益なのか。 本人の意志に逆らってまでそのような時間を長引かせることに、どのような本人利益があるのか? 「苦痛を与えるために命を長引かせている」としか思えない。―― いや、それとも「命が長引くこと」自体に意味=本人益がある? → すぐに思いつくのは、「よくわからない理由によって状態が改善する可能性もあるのだから、早まったことをするべきではない」ということ。 これも上記「治療拒否者」の場合と同じで、「可能性がゼロにならぬうちはチャレンジし続けよう」という、支援者の趣味判断の強要になるのではないか。


いずれの場合も問題は、本人にとっての「希望=益」を見定めるのが難しいこと。 状況改善のために、本人や周囲は何をすればいいのか、その手続きがよくわからない。 いちばん致命的なのは、「ほとんど希望のないことに賭ける」という趣味的行動を、当事者に強要しているのではないか、ということ。


【現在の私自身においては、生き延びる原動力として≪怒り≫が大きな要因になっていると思います。 すでに誰かも言っていたことですが、今の私は「生きる屈辱」よりも「死ぬ屈辱」のほうが大きい(だから生きている)。 これは「趣味」というべきなのか、それとも「倫理」というべきなのか。】





*1:以下、id:hotsuma さんを「批判する」ことが目的なのではなく、このやり取りを通じ、大事な問題を俎上に載せたい、ということですので念のため。

*2:そうでないと本人は治療には向かわない

*3:病気への直面忌避も含め

*4:=「生き延びようと意思し、そのために努力している」

*5:それが「本当に」改善不可能かどうかが核心的問題になるでしょう

*6:「なぜなら、それが君の益なのだから」

*7:id:hotsuma さんご指摘のとおり、「診断名をもらうこと」は、職場での立場を守るのみならず、それ自体として「治療的」なんだと思います。 私がここで問題にしているのは、「診断をもらって、そのうえ抗鬱剤等のあらゆる治療を試みたのに、自殺念慮から自由になれない」ケースのことです。