「居着き」 → 「非中枢的な身体」

27日のコメント欄から、id:mommoo さんの「居着き」を思い出し、こちらの論文を読んでみました。 ひきこもり当事者(経験者)の苦痛緩和および「有力化 empowerment」のヒントになるかもしれないので、以下、簡単に引用しながらメモ。

 身体技法としての武道は、「武士道」や「忠君愛国」のような、ある歴史的状況に固有の社会的価値観との関連だけで理解できるものではない。

三島由紀夫との関連でこれは重要ではないか。

 おのれの生命身体についての過度の気遣いが不安を昂進させ、結果的に運動能力を低下させ、生命身体の危険がいっそう高まる。 この悪循環が「居着き」の構造である。

「意識しすぎるがゆえに何もできなくなる」という要因は、ひきこもりにとって絶対無視できないと思う。

 運動だけがあって反省のない身体、刺激の意味について省察する中枢を関与させないで反応する身体(「寸断された身体」「アナーキーな身体」)、これを私たちは以下では「非中枢的な身体」と呼びたいと思う。 (中略)
 いずれも「私の外部」に運動の操作主を想像的に設定し、そこに運動の支点や起こりを移すことによって、私の本体を完全に力みの抜けた一種の「操り人形」状態に置くことを技術的な「仮説」としている。*1

「不自由な自意識」に苦しむ身としては、大きなヒントを感じる。 ただ、

 敵を忘れ、私を忘れ、戦うことの意味を忘れたときに、戦う者は最強となる。 なぜなら、彼にはもはや「守るべき自我」も「破るべき敵」もないからだ。 その身体運用はあらゆる「居着き」を去った融通無碍、完全に予見不能の自在境に到達している。 しかし、その最強の身体は、もう戦うことに意味を見出すことができない。

と言われてしまうと、欺瞞(は大袈裟にしても危機)を感じざるを得ない。 「戦わなければ消え去るしかない」身の上としては、「戦う意味」が消えることはない。 本当に「自分が消え」ていいのなら、排除されたまま滅びてしまってもいいではないか。
少々強引かもしれないが、僕はここに「単独性の抹消」を読んだのだが…。




社会生活をよく「ゲーム」に喩えるが、「武道」の発想を取り入れたほうが有用ではないか。「命のかかった真剣勝負」というような意味で。


この件はまたぜひ立ち返って考えてみたい。





*1:強調は引用者。