「概念のジャンル越境」あるいは「使える概念」

先日、「自然」記述と「人間(精神・社会)」記述それぞれにおける概念運用についての疑問をメモしたのですが、id:Ririka さんが「自由意志と量子力学」という対話*1をアップしてくれています*2
このテーマには、歴史的にも膨大な議論の蓄積があるんだと思います。僕は科学哲学にも物理学にも通暁していないし、そもそも「ひきこもりの苦痛緩和」にとってこの議論にどんな意味があるかもよく分からない。でも、僕が10代のころから内発的な興味を寄せている議論であるのは間違いなく、「ひきこもりの内面生活にとっても関連があるかもしれない」ということで、現時点での僕の理解をメモしておきます。


「自然の観察と人間の観察」に関して、僕がずっと悩ましく抱えている思考実験があります。次のようなものです*3

 完全に密閉された箱の中に 人間A と 人間B が入り、それを外部から 研究者C が観察する。
 A と B はお互いの発言を理解できるが、それは C にとって未知の外国語であり、会話を聞いても理解できない。 C の用いる観測機器は、音波、A・B の体温をはじめ、箱の中のあらゆる物理現象を読み取れる。
 実験開始後、しばらくして B が発声し、A の体温が上がった。 C は因果関係を特定しようとしたが、系が複雑すぎるのか、わからなかった。 → 実験終了後、通訳を介して C が A に訊ねた。
 C: 「なぜ君の体温が上がったんだろう?」
 A: 「B が私に≪お前はバカだ≫と言ったんだ」


  • 「物質の観測」をしているかぎりは理解不能な現象でも、「意味の解釈」をすると5歳児にもわかる因果関係だったりする。 → ≪理解≫には、「意味の解釈」と「物質の観測」の2種類がある?
    • 「物質理解」に用いる概念操作と、「意味の解釈」に用いる概念操作とを混同するところに、概念濫用の典型がないか。 【「理系概念濫用の哲学者」、「宗教に向かう物理学者」など。】
    • 哲学を嫌ったファインマンは「予測可能性」をサイエンスの身上としたが、上記の実験では、「物理的な観測」では将来予想は不可能であり、「意味の解釈」のほうが将来予想に意味がある。
    • 一般に「人間関係がヤヤコシイ」という場合、物質レベルの複雑さを問題にしているわけではない。


  • ラプラスの悪魔決定論的認識)は不可能」だとしても、「認識はできなくても、でも≪決まっている≫」気はする。
    • 決定論は、幸・不幸(境遇・事件)や「バカげた判断」もすべて≪運命≫だとし、鏡像的(ナルシスティック)に肯定して終わる*4。 → 「まだ将来は決まっていない」を前提にしないと、改善努力が始まらない。
    • 「将来は決まっていない」と判断して行なう決意や努力さえもが「決定された運命に繰り込まれている」と考えてしまって、キリがないわけですが。 【この自意識の無限後退にはどうやって決着をつければいいんだろう?】


  • 天皇陛下の特異性は、物理的観測対象*5のレベルにあるのではなく、社会制度上のポジションの問題。身体そのもののレベルに特異性を探すのはおかしい。
    • 貨幣が社会的に持っている機能(およびその運動)の特異性も、貨幣の素材レベルに起因するのではなく、その社会的ポジションに因る。 【 → 貨幣経済の運動を、本来は物質科学の記述言語であるはずの数学(しかも凄まじい高等数学)で記述することへの不信。*6
    • 「陳腐な対象を(そうと知りながら)特異的に扱う」ことがフェティシズムだとしたら、それを科学的な説得で解除することは不可能(か?)。 【「宗教は民衆の阿片」を国是としていた旧ソ連が、レーニンの遺体を「超自然的秘宝」のように尊重していたことについては、ジジェクが触れていました。】


  • 「心を物質科学で理解できた」として、「解釈」や「社会的ポジション」から生じている苦痛を緩和できるか。*7
    • 「脳内の物質状態の変化による苦痛緩和」の追求と、「人文的・社会的苦痛緩和」の追求。両方必要だと思います。問題はバランス感覚というか。
    • ≪洗脳≫という問題系(つまりどのような状態になれば「自由意志が奪われている」ことになるのか)を、「物質科学」と「人文系学問」の両面から考えるべきではないか。



ひとまずそんな感じでしょうか。


驚いたのは、次の発言です。

Wy : 理論物理でつかっている計算は、数学が専門の人からすれば非常にいい加減なことをやっているわけで、(中略)そういう意味で、物理の人からみれば非常にいい加減だけれども量子論をつかって意識の問題について考えることもできるかもしれませんね。

「数学者にとっては非常にいいかげんな計算」が、「理論物理では有効」ということがあり得るのですか?(数学である以上は、同じ厳密さだと思ってた)
それは「帰納と演繹のちがい」とかいうだけでは済まない*8、もっと原理的な問題なんでしょうか。…と言っても、これはさすがに「引きこもり」とは関係ないか。


「ある議論ジャンルの厳密な概念を、他ジャンルの議論に応用することに伴う諸問題」というふうに一般化すればいいんでしょうか。(広げすぎ?)
「現実を論じる議論」と、「フィクション」のあいだで、使われる単語の影響関係はどうなっているだろう、とか。(さすがに広げすぎか)


僕が興味を持っていて、かつ斎藤環さんも依拠される「精神分析」という議論ジャンルは、ポパーをはじめとしていろんな人から「インチキ」だと言われていて、そういう意味でもこの「使える概念」の話は、やっぱり目が離せません。



*1:メッセの過去ログかな? とても「夢」には見えません(笑)

*2:対話の後半はこちら

*3:既存の議論では、何と呼ばれているのでしょうか。

*4:あまりにも悲惨な境遇や事件に直面し、どうしてもそれを受け入れられないときには、「運命」という宗教的な概念が求められることもあるようです。(逆に、「事件をきっかけに信仰を失う」こともあるようですが。)

*5:DNAなど

*6:情けない話なのですが、僕はこの疑問でつまずいてしまっていて、どうしても経済学の議論に入っていけません。トホホ。ていうか、この不信感は学問的にはとっくに解決済みなんでしょうか。

*7:『皇帝の新しい心』ISBN:4622040964 も、この点についての立場がよくわからなくて、すぐに読むのをやめてしまいました。「心を物質的に理解する」ことで得られる苦痛緩和は、どのようなものなのでしょう。

*8:というかそういう話ではないのか。