精神分析とは、殺された声をめぐる思索ではなかったか。
もんだいは、声を殺すことでかろうじて成り立つ生活があるということだ。
代換案がないかぎり、僕らは殺戮的な意識の狂気を生きざるを得ない。
その辺を人文的に考えることにどの程度意味があるだろう。
凡庸な自分が生きのびる道。
思考は死を排除しないし、たぶんするべきでもない。
労働においても生活においても、想像的なもののメンテナンスがあるだけで、
その外側には恐怖に満ちた現実が広がっている。(いや、内側にも)
媒介する言葉には工学的なイメージしか持てない。
端的に、自分には道具がない。
生きることは「言い訳」以上のものであり得るだろうか。
腹を立てているのに。
言葉のやっつけ仕事。そうではなく、
いちばん激しい殺意の対象は、
テコでも動かない狂気の元凶。
システムか、個人か。
どの声にいちばん敏感なのか。
それを問題にして何ができるというのか。
声にできる仕事をもう少していねいに考えるべきだ。
泣き寝入りでも、投げやりでも、耽溺でもなく。
言葉があきらめかかっている。