居場所の文法

聴講し、いい意味でショックを受けて帰ってきました*1
以下は、私の個人的なメモです。【※発言の引用等については、主催者や発言者の許可はいただいていません。不正確な描写等に問題がございましたら、リンクやメールにてご指摘いただければ幸いです。適宜対応させていただきます。】

    • 講演が新海誠氏(実作者)、司会が大塚英志氏(批評家・教育者)、コメントに川口典孝氏*2事業家)、そして客席には、作品づくりに人生を賭けようとしている学生たち。 この配役(?)の緊張感が素晴らしかった。 単なる作品批評でも、単なるビジネス論でも、単なる「将来の夢」でもなく、いわば当事者どうしの真剣さの掛け合い。 ほぼ満員の聴衆がずっと聴き入っていて、学生からの質問も具体的だった*3


    • アニメはこれまで、法人組織で億単位の予算を組んでつくられるのが当たり前だと思われていた。 自宅のパソコンであれだけのクオリティを実現してみせた新海誠氏は、「アニメ制作の文法を変えた」(大塚英志氏)*4。――「新海誠は、ああいうことをやって見せた。で、お前はどうするんだ?」という刃(やいば)が、帰宅後もずっとつきまとう。 それは、「早く就職しなくちゃ」という焦りとはやや違う。 「なすべき仕事」についての信念が問われている。 考えてみれば私は、ひきこもり支援の「文法のまちがい」に、いちばん苛立っている


    • 間違った論者を批判しても、その作業自体がどんどん自家中毒になっていく。 誰かを批判するエネルギーは時には必要だが、自分じしんが何かを積極的に創りださないと、話にならない。 たとえば今回なされていた技術論だけなら、多くの人ができるだろうが*5、新海氏のように突出した作品を作っていない人が何を言っても面白くない。 作品そのものの決定的な磁場がなければ、批評も面白くない。


    • 「作品づくりが間違ってる」ことへの介入と、「臨床的にまずい」ことへの介入を、同じ活動と考えること。 人間の意識そのものを唯物論的な「制作過程」とみなせば、自然とそうなる。 逆にいうと、間違った批評は、臨床上の暴力になる。 ▼精神的なしんどさは、「作品づくりの誤り」。 本当に必要なのは、病名やレッテルではなく、「それをどう別のプロセスにしていくか」。


    • 作品への印象批評は、「カテゴリー分類とメタ分析しかしない診断」みたいなものか。 いっぽう、作品制作のプロセスにつきあい、予算や流通過程にまで介入するような批評=臨床は、可能かどうか以前に、何らかの形で必要ではないだろうか。 ▼とはいえここで、《批評=臨床》の侵襲性が問題になる。 作品(結果物)だけにつきあうより、制作過程にまでつきあう方が、洗脳的支配の危険は高まる。


    • 新海氏は、大学は国文学科を卒業し(卒論は永井荷風)、ゲーム会社に5年間勤務。 自分の確信したアニメ作品を作るために*6、会社を辞めた(当時の貯金は300万円)。 「色遣いはどうやって学んだのか」という質問もあったが、「その質問にはいつも恐縮するのだが、正式に勉強したことはない」。 ▼正規の教育ルートにいなかった人が、完成させた作品の力で道を切り開いた。 考えてみれば、新海氏と仕事をされている(今回見えられていた)川口氏も、既存の作品制作や流通のあり方に自らリスクを冒して挑戦されているのだと思う。


    • 新海誠がすごいのは、約束を守ること。納期は平気で破るんですが(笑)、『これこれのことをしたいから、あと二ヶ月ほしい』と言ってくる。そして結局、その二ヶ月の納期を守り、クオリティの上がった作品を仕上げてくる。その意味では、本当に信頼しています」(「コミックス・ウェーブ・フィルム代表取締役・川口典孝氏の発言より、大意)


    • 私は新海作品をすべて(DVDで)観ているが、消費者視点のアニメ談義にはほとんど興味を持てない。 今回は、制作プロセスや実務レベルの話で、本当に面白かった。 ルーズリーフの罫線の入った絵コンテ、チームでの意思疎通の難しさ、登竜門のありかた、お金をめぐる具体的な苦労・・・。 アニメというと、作品やキャラクターへの転移ばかりが語られるが、《事業プロセスへの転移》もあると思う。


    • 学生からの質問は《絵》に集中したが(参照)、新海氏はひたすら動画コンテ*7重要さと面白さを力説した。 「ここまで出来れば、70%は言いすぎですけど、半分くらいはできたようなものです」。 絵については驚くほどそっけなく、「描いてれば勝手にうまくなっていく」 「就職すればうまくならざるを得ない」 「動画コンテができたら、あとは仕上げるだけ」(いずれも新海氏)。 総合的に作品を仕上げられる人と、「きれいな絵にこだわるだけの人」の違いか。


    • 情緒的でデリケートな描写を実現するには、ものすごくドライな技術論が必要だということを痛感した。 身に覚えのある微妙なリアリティを独特の方法で描いてみせた新海氏の技術解説だけに、聞き入ってしまう。 いっぽう、作品の内容そのものについては、「孤独さや切なさのリアリティを描くだけでいいのか」といった疑問も湧いたが、その違和感こそが自分の創作意欲なのだと理解して、自分でつくるほうに向かうしかないのだと思う。 実際に作って見せられないなら、その程度の反論でしかない。 職人的なドラスティックさを、自分の仕事に関して持たなければ。


    • 作品をつくりだそうとする活動では、制作チームのモチベーションは、「結果的に仕上がるはずの作品」が維持する。 そこでは、すでに仕上がった作品の魅力が動員力になる。 では、臨床の場合はどうだろうか? 「健康な人たち」が、目指されるべき結果だろうか。――しかし、最初から「健康な結果」を目指す自意識は、臨床過程をダメにしてしまう*8。 社会参加の臨床では、「健康な状態」という《結果》だけでなく、取り組みのプロセスそのものを共有し、そのプロセスを関係者の全員が主題化する必要があるが*9、こうした取り組みのプロセスは、それ自体として屹立する(評価の対象になる)ことは考えにくい。 そこで集団的なモチベーションは、どうやって維持すればよいだろう。


    • このブログに精力を傾けてきた私は、それを単に否定されることには抵抗する。 しかし今回の講義に参加して、「自分は何を母体に仕事をするのか」を問い直している(新海氏はアニメだ)。 たとえばドゥルーズは、「哲学」というフレーム=母体があったから、過激でも仕事がのこった。いっぽうガタリは、フレーム=母体なしに方法論だけであらゆる事象に切り込んで、けっきょく仕事としては消えてしまいかねないように見える。 私は今のままでは、まったく仕事をしていないことになるのではないか。


    • 目の前の仕事の意味を変えるような、長いスパンでの仕事が必要だ。 そこを見極められない人には、悪い意味で場当たり的な仕事しかできないんだと思う。




《居場所》

意外だったのは、新海氏が《居場所》という言葉を、強い負荷をもって語られたこと。
「アニメを作らないと、社会的な居場所がなくなる。撤退しない覚悟でやっている」 「作品を作っていると、《ここに居ていいんだ》という気になる」(新海氏の発言より、大意)。


日記(2009/03/28)には、次のように記されていた(強調は引用者)

 ロンドンに来たばかりの頃に買った英訳版の村上春樹の『The Elephant Vanishes(象の消滅)』、その中の『A slow boat to China』の一節に、中国人の女の子が呟く「This was never any place I was meant to be.」というラインがあります。オリジナル版では確か、「そもそもここは私のいるべき場所じゃないのよ」とか、そんな文章でした。遠くから来た人たちばかりが集まり幾つもの外国語が溢れるロンドンでは、僕自身も外国人のひとりであり、それはとても自由で素敵な感覚でした。それでも、上に引用したような呟きが常に心のどこかにあったような気がします。
 かといって、それでは東京なり故郷の長野なりが自分の「いるべき場所」だと思えた瞬間だって、考えてみれば一度だってないのです。海の匂いのするこの島でも、雪の舞うフィンランドでも、複雑な歴史の覗くイスタンブールでも。だからせめて、暫定的にであっても、「自分のやるべきこと」は見えるようにしておきたいと、そう思います。

ロンドンで何をしていたかといえば、「新しい作品について、これを作っていいんだろうか、と悩んでいた。作ると確信できたから帰国した」(新海氏、講演でのご発言)。


そもそも、「居場所がない」という切実さのない人が、仕事の文法を変えるような実務を続けられるだろうか。
私は、ジャンルの既存文法に安住した仕事に興味が持てない。 かといって、弛緩した逸脱もどうでもいい*10。 本当に重要なのは、逸脱しながら、オリジナルの緊張感(誠実さ)を維持した仕事だ。
制度順応でしかない仕事には、アリバイづくりの窒息しかない*11



*1:この企画の実現に尽力なさった方々に、感謝申し上げます。

*2:新海氏と一緒に仕事をされている、「コミックス・ウェーブ・フィルム代表取締役

*3:質問のための挙手が途切れることはなかった。

*4:やや記憶があいまいだが、そういう趣旨のコメントをされたと思う。

*5:フォトショップの初歩的なお話だけだったのだと思います。 新海氏や大塚氏からもそういう断りがありましたし、どういう話をしているかは、門外漢の私にも大まかには理解できました。

*6:フォトショップというソフトと出会ったことで作品づくりを始めたという。 光の描写が印象的なのは、「デジタルから仕事を始めたことが大きい」(新海氏)。 アナログ画材とちがって、簡単に光の処理ができるとのこと。

*7:「ビデオコンテ」ともいうようです。手書きのコンテをパソコン上で編集し、簡単な動きと音を入れてタイミングなどを確認できる状態にしたもの(参照)。 今回の講演で新海氏は、プロジェクター越しに作業を実演されました。

*8:「うまくいった状態像」の固定と誇示は、自己抹消的な自意識を暴走させてしまう。 私が斎藤環氏や宮台真司氏を批判するのは、まずもってこのせいだ。

*9:これは、身体医学と精神医学の決定的な違いだ。 身体医学では、臓器や血液の健康な組成は、《目指されるべき結果》として固定されている。 そこで「プロセスの共有」は、二次的でしかない(原理的には必要ない)。

*10:不登校もひきこもりも、非モテも犯罪も、逸脱としては凡庸だ。 逸脱や弱者性そのものは「仕事の価値」ではない。

*11:「文句はつけられないけど、価値もない」みたいな、「適応努力を誇示しただけ」みたいな “仕事” が、私たちをお互いに苦しめていないでしょうか。 ▼とはいえ、社会を成り立たせているのは、思い入れのある仕事ばかりとも思えず。――「この世そのものがやっつけ仕事」という投げやりな意識に、どう抵抗するか。