居場所の文法
- 神戸芸術工科大学 「メディア表現学科特別講義A 〜ゲスト講師・新海誠氏」
- 7月1日(水) 14:40〜
- 司会: 大塚英志(本学メディア表現学科教授)
- ※一般の方の聴講可となっております
聴講し、いい意味でショックを受けて帰ってきました*1。
以下は、私の個人的なメモです。【※発言の引用等については、主催者や発言者の許可はいただいていません。不正確な描写等に問題がございましたら、リンクやメールにてご指摘いただければ幸いです。適宜対応させていただきます。】
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- 「作品づくりが間違ってる」ことへの介入と、「臨床的にまずい」ことへの介入を、同じ活動と考えること。 人間の意識そのものを唯物論的な「制作過程」とみなせば、自然とそうなる。 逆にいうと、間違った批評は、臨床上の暴力になる。 ▼精神的なしんどさは、「作品づくりの誤り」。 本当に必要なのは、病名やレッテルではなく、「それをどう別のプロセスにしていくか」。
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- 作品への印象批評は、「カテゴリー分類とメタ分析しかしない診断」みたいなものか。 いっぽう、作品制作のプロセスにつきあい、予算や流通過程にまで介入するような批評=臨床は、可能かどうか以前に、何らかの形で必要ではないだろうか。 ▼とはいえここで、《批評=臨床》の侵襲性が問題になる。 作品(結果物)だけにつきあうより、制作過程にまでつきあう方が、洗脳的支配の危険は高まる。
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- 「新海誠がすごいのは、約束を守ること。納期は平気で破るんですが(笑)、『これこれのことをしたいから、あと二ヶ月ほしい』と言ってくる。そして結局、その二ヶ月の納期を守り、クオリティの上がった作品を仕上げてくる。その意味では、本当に信頼しています」(「コミックス・ウェーブ・フィルム」代表取締役・川口典孝氏の発言より、大意)
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- 私は新海作品をすべて(DVDで)観ているが、消費者視点のアニメ談義にはほとんど興味を持てない。 今回は、制作プロセスや実務レベルの話で、本当に面白かった。 ルーズリーフの罫線の入った絵コンテ、チームでの意思疎通の難しさ、登竜門のありかた、お金をめぐる具体的な苦労・・・。 アニメというと、作品やキャラクターへの転移ばかりが語られるが、《事業プロセスへの転移》もあると思う。
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- 情緒的でデリケートな描写を実現するには、ものすごくドライな技術論が必要だということを痛感した。 身に覚えのある微妙なリアリティを独特の方法で描いてみせた新海氏の技術解説だけに、聞き入ってしまう。 いっぽう、作品の内容そのものについては、「孤独さや切なさのリアリティを描くだけでいいのか」といった疑問も湧いたが、その違和感こそが自分の創作意欲なのだと理解して、自分でつくるほうに向かうしかないのだと思う。 実際に作って見せられないなら、その程度の反論でしかない。 職人的なドラスティックさを、自分の仕事に関して持たなければ。
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- 作品をつくりだそうとする活動では、制作チームのモチベーションは、「結果的に仕上がるはずの作品」が維持する。 そこでは、すでに仕上がった作品の魅力が動員力になる。 では、臨床の場合はどうだろうか? 「健康な人たち」が、目指されるべき結果だろうか。――しかし、最初から「健康な結果」を目指す自意識は、臨床過程をダメにしてしまう*8。 社会参加の臨床では、「健康な状態」という《結果》だけでなく、取り組みのプロセスそのものを共有し、そのプロセスを関係者の全員が主題化する必要があるが*9、こうした取り組みのプロセスは、それ自体として屹立する(評価の対象になる)ことは考えにくい。 そこで集団的なモチベーションは、どうやって維持すればよいだろう。
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- 目の前の仕事の意味を変えるような、長いスパンでの仕事が必要だ。 そこを見極められない人には、悪い意味で場当たり的な仕事しかできないんだと思う。
《居場所》
意外だったのは、新海氏が《居場所》という言葉を、強い負荷をもって語られたこと。
「アニメを作らないと、社会的な居場所がなくなる。撤退しない覚悟でやっている」 「作品を作っていると、《ここに居ていいんだ》という気になる」(新海氏の発言より、大意)。
日記(2009/03/28)には、次のように記されていた(強調は引用者)。
ロンドンに来たばかりの頃に買った英訳版の村上春樹の『The Elephant Vanishes(象の消滅)』、その中の『A slow boat to China』の一節に、中国人の女の子が呟く「This was never any place I was meant to be.」というラインがあります。オリジナル版では確か、「そもそもここは私のいるべき場所じゃないのよ」とか、そんな文章でした。遠くから来た人たちばかりが集まり幾つもの外国語が溢れるロンドンでは、僕自身も外国人のひとりであり、それはとても自由で素敵な感覚でした。それでも、上に引用したような呟きが常に心のどこかにあったような気がします。
かといって、それでは東京なり故郷の長野なりが自分の「いるべき場所」だと思えた瞬間だって、考えてみれば一度だってないのです。海の匂いのするこの島でも、雪の舞うフィンランドでも、複雑な歴史の覗くイスタンブールでも。だからせめて、暫定的にであっても、「自分のやるべきこと」は見えるようにしておきたいと、そう思います。
ロンドンで何をしていたかといえば、「新しい作品について、これを作っていいんだろうか、と悩んでいた。作ると確信できたから帰国した」(新海氏、講演でのご発言)。
そもそも、「居場所がない」という切実さのない人が、仕事の文法を変えるような実務を続けられるだろうか。
私は、ジャンルの既存文法に安住した仕事に興味が持てない。 かといって、弛緩した逸脱もどうでもいい*10。 本当に重要なのは、逸脱しながら、オリジナルの緊張感(誠実さ)を維持した仕事だ。
制度順応でしかない仕事には、アリバイづくりの窒息しかない*11。
*1:この企画の実現に尽力なさった方々に、感謝申し上げます。
*2:新海氏と一緒に仕事をされている、「コミックス・ウェーブ・フィルム」代表取締役
*3:質問のための挙手が途切れることはなかった。
*4:やや記憶があいまいだが、そういう趣旨のコメントをされたと思う。
*5:フォトショップの初歩的なお話だけだったのだと思います。 新海氏や大塚氏からもそういう断りがありましたし、どういう話をしているかは、門外漢の私にも大まかには理解できました。
*6:フォトショップというソフトと出会ったことで作品づくりを始めたという。 光の描写が印象的なのは、「デジタルから仕事を始めたことが大きい」(新海氏)。 アナログ画材とちがって、簡単に光の処理ができるとのこと。
*7:「ビデオコンテ」ともいうようです。手書きのコンテをパソコン上で編集し、簡単な動きと音を入れてタイミングなどを確認できる状態にしたもの(参照)。 今回の講演で新海氏は、プロジェクター越しに作業を実演されました。
*8:「うまくいった状態像」の固定と誇示は、自己抹消的な自意識を暴走させてしまう。 私が斎藤環氏や宮台真司氏を批判するのは、まずもってこのせいだ。
*9:これは、身体医学と精神医学の決定的な違いだ。 身体医学では、臓器や血液の健康な組成は、《目指されるべき結果》として固定されている。 そこで「プロセスの共有」は、二次的でしかない(原理的には必要ない)。
*10:不登校もひきこもりも、非モテも犯罪も、逸脱としては凡庸だ。 逸脱や弱者性そのものは「仕事の価値」ではない。
*11:「文句はつけられないけど、価値もない」みたいな、「適応努力を誇示しただけ」みたいな “仕事” が、私たちをお互いに苦しめていないでしょうか。 ▼とはいえ、社会を成り立たせているのは、思い入れのある仕事ばかりとも思えず。――「この世そのものがやっつけ仕事」という投げやりな意識に、どう抵抗するか。