「ゲームプレイ・ワーキング」 【第1回】より

東浩紀: 多様性を拡大するかわりに工学的な画一性を甘受した社会。(略) ひとつは「ゲームプレイ・ワーキング」。言ってしまえば人間グリッド・コンピューティング*1ですね。街の中でケータイ電話で暇つぶしをしていると、オンライン上でなにかの生産に寄与しているというシステムがグローバルに整備されている、という設定です。
下條信輔: なにかの会員になるとポイントがついたりするということでしょうか。
: むしろケータイゲームと SETI@home が合わさったようなものです。 ゲームプレイ・ワーキングサーバーに登録しておくと、暇なときにむこうからミニゲームを送ってきて、その結果がなにかの仕事になっているので小金が手に入る、という新種の労働です。それがグローバルで整備されているため、いまニートとか、ひきこもり、オタクと言われるような人たちでも年収200万円くらいで気楽に暮らせるようになっているわけです。

夢のような話。(実現可能性は、あるいはその時期は?)
これが「脳−コンピューター直結インターフェース」と連動すれば、全身不随の障害者でも労働できることになる。






*1:【原文の注】:「ネットワークを介して複数のコンピュータを結ぶことで仮想的に高性能コンピュータをつくり、利用者はそこから必要なだけ処理能力や記憶容量を取り出して使うシステム。」

「ニューラル・マーケティング」と自由意志 【第1回】より

下條信輔: ぼくらの大学院を志望する大学院生のうち、8割がニューラル・マーケティングをやりたいと言ってきています。数年前は8割くらいがブレイン・マシン・インターフェース(脳と機械を結ぶインタフェース)をやりたいと言っていたんですけどね。ニューラル・マーケティングのねらいを一言でいうと「消費行動の脳メカニズムを解明すると同時に、それをどうやってセールスに反映させるのか」ということです。
 これと密接につながったもうひとつのホットなトレンドとして、ニューロエコノミクス(神経経済学)というアプローチもあります。これは脳科学を販売戦略や製品開発に活かすニューロ・マーケティング手法のさらに前提として、意志決定の際の脳の信号を計測することで、経済学の伝統的な諸理論を証明したり、逆に反証したりしようという発想です。



■【参照:「環境知能シンポジウムの記事」(東浩紀)】

下條氏は『<意識>とは何だろうか』のp.209以下で、「人間が自由を感じるのは何も考えていないとき、すなわち環境のいいように操作されているときだ」という、ある意味でたいへん逆説的な意見を述べています。



「環境」という言い方には、単に環境世界というだけでなく、個人が巻き込まれる《制度》があり、それには具体的な人間関係も含まれる。 「教師と学生」 「医師と患者」 「親子」 「雇用主と従業員」など、さまざまな役職上の関係を含む人間関係には、一人ひとりが直面する力関係のマネジメントがあり、そこからのズレや逸脱が問題になり得る。
動物化を支える「環境管理」だけではない話があり得るとしたら、制度からの「やむにやまれぬ逸脱」と、その制度そのものへの換骨奪胎的取り組みではないだろうか。▼むしろここでは《人間》は、制度や環境からの逸脱やズレ、あるいは「制度そのものへの取り組み」として描き得るかもしれない。







意思決定と責任の分散化 【第2回】より

下條: 敢えて言ってしまうと、自由意志というものは実は存在しなかったということになるかもしれない、ということですね。確かにそれは困る。しかし、その自由というものは近代社会の大前提にある概念ですけど、これまでの人類の歴史の中ではそんなに長いものではない。(略)
: 「人間は自由意志を持っていない」ということを前提として、新しい効率的な資源配分をする社会に向かっていることは考えられますね。人間はそもそもものごとを自由に決定できないのだから、過分な責任も負わせない。

: 責任の所在がますます分散化し、ますます複雑な訴訟社会がやってくるという話ですね。確かに、アメリカの過剰な訴訟社会化は、あまりにも複雑な社会になったため、もはや決定の「主体」として個人がすべてを負い切れなくなっているから、とも受け取れます。 (略)
下條アメリカの社会そのものが、裁判と訴訟によって成り立っているからです。裁判と訴訟というのは、おカネがある人はやり手の弁護士を雇って勝っていいという話です。 (略) いずれにしても金のある者が勝つ。



子供がひきこもった場合、責任配分が決められる。 子供○%、親○%、国○%、学校教師○%――というような。
しかしこれでは、各個人が「自分で取り組む」という契機がまったく問題にできない。 社会に参加する手続きや作法の問題は、ここではまったく扱われない。そのことに強く苛立つ。 ▼ひきこもりというのは、むしろ「取り組めなくて途方に暮れる」ということだと思うのだ。







「もともと自由ではまったくなかった」 【第3回】 【最終回】より

東浩紀: そもそも、人間は工学的にコントロール可能な一種の動物にすぎない。その制御可能性は、人間の生物学的な条件そのものに根ざしているので、本人がそれを自覚可能かどうかはまったく関係ないと思うんです。 (略)
 しかし、選挙の話はそれに加えてもうひとつの次元を備えている。というのも、繰り返しになりますが、それは、私たちの社会の「建前」の根幹に関わるからです。

下條信輔: 自由があるのかないのか、それは人間一般にとってどれくらい重要なものなのか、その結論は、そういう無数の制約条件のヒエラルキーの中で、自由の観念がいったいどれぐらいの普遍性を持っているかということで決まると思っています。そして、その過程では、「自由」という近代以降に成立した概念がなくなってしまうことがありうるし、またそれならばなくなってしまってもいいとさえ思ってるんです。もちろんそれは、われわれの考える自由が客観的現実とはかけ離れていることがわかり、その上社会の制度を維持する幻想としてさえ役立たなくなったなら、という前提ですが。
東浩紀: 自由がなくなってしまう未来、といっても、監視社会とか管理国家とかいうかたちで自由がなくなるのではなくて、ぼくたちみなが、自分たちはもともと自由ではまったくなかったということに気がついてしまう未来、ということですね。



「自由がない」ということの本当の問題は、「好き勝手できない」ではなくて、
「自分で着手する手続きが見えない」だと思う。