意思決定と責任の分散化 【第2回】より

下條: 敢えて言ってしまうと、自由意志というものは実は存在しなかったということになるかもしれない、ということですね。確かにそれは困る。しかし、その自由というものは近代社会の大前提にある概念ですけど、これまでの人類の歴史の中ではそんなに長いものではない。(略)
: 「人間は自由意志を持っていない」ということを前提として、新しい効率的な資源配分をする社会に向かっていることは考えられますね。人間はそもそもものごとを自由に決定できないのだから、過分な責任も負わせない。

: 責任の所在がますます分散化し、ますます複雑な訴訟社会がやってくるという話ですね。確かに、アメリカの過剰な訴訟社会化は、あまりにも複雑な社会になったため、もはや決定の「主体」として個人がすべてを負い切れなくなっているから、とも受け取れます。 (略)
下條アメリカの社会そのものが、裁判と訴訟によって成り立っているからです。裁判と訴訟というのは、おカネがある人はやり手の弁護士を雇って勝っていいという話です。 (略) いずれにしても金のある者が勝つ。



子供がひきこもった場合、責任配分が決められる。 子供○%、親○%、国○%、学校教師○%――というような。
しかしこれでは、各個人が「自分で取り組む」という契機がまったく問題にできない。 社会に参加する手続きや作法の問題は、ここではまったく扱われない。そのことに強く苛立つ。 ▼ひきこもりというのは、むしろ「取り組めなくて途方に暮れる」ということだと思うのだ。