脱法的な倫理的取り組みとしての、「関係当事者として」

要旨

当事者性の強調は、単なる制度順応とは別の仕方で――脱法的に――「自分の問題に取り組む」ということ。しかしそれは、交渉関係の前提を整備することにすぎない。何かの事案についての当事者性は、万能の主張権限や特権ではない。▼その取り組みは、倫理的には英雄的であり得ても、あまりに受傷的であり、制度的強制力を持たないために、非常に脆弱に見える。

      • 《脱法》の辞書的な意味は、「法に触れないように悪事を働くこと」。しかしこの論考では、「脱制度的な、オリジナルな創意にあふれた活動」というほどの意味。単に反社会的な言動は、むしろ陳腐なパターン踏襲でしかないことが多い。




交渉主体として、自治的・脱法的に介入すること

それぞれの批判的思想の要点は、どのようなスタイルで脱法的(脱制度的)取り組みを奨励しているかで整理できる。

  • 「政治家は遵法だけではダメで、いざというとき、国のために脱法的に振る舞えなければならない」(宮台真司*1
  • 不可視かつ無声の無能力者の存在*2に忠実になろうとすることで、「違法行為ですら許される」とする思い込み(右翼でも左翼でも)。
    • そこで忠誠を目指される無能力者は、「語らない他者」であり、他者とはいえない(異論を語ってしまえば、無能力者としての資格を失う)。その「無能力者に忠実になろうとする独りよがりの信仰」が、饒舌に語るブンガクの彩りでますます独りよがりに悦に入る*3。 ここで「無能力者」は、支援者による逸脱のアリバイとなる(参照:貴戸理恵の事案)。 古き良き労働運動における「プロレタリア=当事者」*4
  • やや本題を外れるが、学問的な活動では、既存の「従わなければならない考え方」を逸脱し、「本当に従うべき考え方の筋道」に過激に従うことにより、それまでの考え方からすれば許されないような、あり得ないような必然性の筋道をたどって見せることに自由がある。(最高の必然性を逸脱的にたどることに自由がある)



当事者性とは、生きられてしまっているストレスやトラブルの力関係(の一端)であり、「自分の場所で自分のことを考えてみる」という、取り組みのフレームにあたる。それは単に「弱者性」ではなく、強者であっても、強者であることにおいて当事者性を生きている。力関係が、自分という場所で分析される(強者や弱者を差別的にカテゴライズして済む話ではない)。
何かに「取り組む」とは、自然な(なし崩しの)流れに自分を介在させ、そこに不自然な(脱法的な)流れを生み出すこと。「自分のことに取り組む」とは、自分のことを自律的に(脱法的に)引き受けようとするしんどい作業であり、「○○の当事者として考える」とは、交渉関係のための作業フレームを設定することでしかない(特権が約束されるわけではない)。
それは、契約を原基とする近代社会において自分の事情*5を大切に扱い、「公正な交渉に取り組む」というだけのことであり*6自分の言い分を100%聞いてもらえる、ということではない。ほうっておくと、ただ周囲に流されて「されるがまま」になる自分が、「自分のことに取り組んでみる」ことを通じて、悲惨で投げやりな自己解体(それへの防衛反応としての実体的硬直)を脱し、取り組みのフレームを手に入れること。それは交渉の前段階に着手しただけであって、当事者的な取り組みや主張は、交渉の「条件」にすぎない。



*1:【参照】:「マル激トーク・オン・ディマンド」第326回「右翼も左翼も束になってかかってこい」(宮台真司×小林よしのり×萱野稔人) ▼【宮台本人による文字化】:「マキャベリウェーバー的に言えば、統治権力(政治家)とは市民社会を護持すべく市民社会の枠を逸脱すべき存在だから。むろん脱法の上で失敗すれば血祭りです。「血祭り覚悟で国民の運命にコミットする政治家と、この危険な政治家を監視する市民が必要だ」というのが「国民と国家の分離」の本義。」(「小林よしのりさん、萱野稔人さんと、鼎談しました」)

*2:サバルタン」云々。【参照

*3:「文学と呼ばれる営みを、《独りよがりのための彩り》に貶めてよいのか」という問いがあり得ると思う。もっとも私自身は、「文学」というフレームの設定にどのような意味があるのか、あるべきなのか、今はよくわからない。

*4:最近では「プレカリアート」という言葉も流通しているが、それは理論的範疇というより、当事者性を喚起するための運動体のスローガンに見える。

*5:弱者としてばかりではなく、強者としても

*6:自分の欲望や事情を努力のフレームとするのが交渉・契約だ

自己を特権化する「当事者ナルシシズム」と、支援者の政治的アリバイ

「自分は○○の当事者だから、特権的に扱われる権利があるんだ」というたぐいの当事者ナルシシズムは、単なる交渉主体としての屹立以上の権限が自分にあると思い込んでいる。しかし当事者性とは、努力のフレームを策定する反撃にすぎない*1。 自己分析もなしに自分の言いたいことを無際限に主張して聞き入れられると思い込んでいるとすれば、単に勘違いであり、不当な権利主張にすぎない。
「自分たちは当事者なんだ、オー!」というたぐいの気勢においては、聞くに値する分析より、自分たちの特権性を確認するナルシシズムばかりが目につく。それは実は、「〜であるべきだ」という硬直したべき論で自らの当事者性を抹消しているにすぎない。自己の特権性を主張するだけの当事者発言は、むしろ自らの当事者的自己分析を回避している。
当事者的に取り組むとは、単に私的な事情を誇示することではなく、手仕事としての自己分析や制度分析を、匿名的に行なうことではないのか。べき論の主張においてみずからの当事者性を「なかったこと」にするのではなく、自分が実際にどのような力関係を生きてしまったか、生きてしまっているかを、容赦なく検討に付すこと。
弱者擁護を叫ぶ左翼や右翼のご本人たちには、この意味での当事者意識がまったくない。だからこそ、表舞台でリベラルなことを言っている人が、プライベートではひどい抑圧者であり得る。弱者擁護のアリバイにおいて、みずからの権力性を不問にし、もってみずからを絶対化する*2

    • フェミニズムを標榜する男性が、私的なパートナーを繰り返し妊娠中絶で泣き寝入りさせているケースなど。――多くの女性と付き合ってきた男性こそが、みずからの「当事者発言」において、女性との関係を分析的に語るべきだろう。しかしそれは、たいてい「自分はいかに女にもてるか」という性的ナルシシズムの確認で終わってしまう。「自分はいかに女性を傷つけてきたか」は、本当に貴重な「当事者発言」ではないだろうか。▼弱者男性の「当事者発言」は、性的強者が性的弱者を抑圧するマチズモ的規範構造を強めることすらある。「弱者だけが語らされる」状況は、それ自体が差別的だ

「俺は、自分が当事者性をもたない問題に取り組むことにプライドがあるんだ」*3というのは、いっけん格好良く見えるし、実際に弱者のためになる。しかしそれは長期的には、みずからの当事者性を回避した卑劣な態度でしかない。「べき論」の標榜において、人はいくらでも都合のよい「正義の味方」になれるだろう*4。 ▼その意味では、ひきこもっている人も、自らの当事者性を問題にせざるを得ない。当事者性を問題にするとは、関係の中における自分の責任を問題にすることでもある。ひきこもっている人は、生き延びているのだから、一定の力関係を実際に生きている。少なくとも、扶養されている家族との間で。


自分を100%特権視する当事者ナルシシズム*5と、そういう当事者を100%特権視することでみずからの政治的アリバイを保つ弱者擁護は、お互いに持ちつ持たれつの関係にあって、「当事者」の差別的カテゴライズを維持している。それは、リアルな力関係におけるお互いの当事者性をみずから問題にするという意味での分析的当事者論を欠いている。「自分のこと」を問題にするのではなく、「自分以外の誰か」を責めたり支援したりして自己維持している。それは、単なる制度順応でしかない。
差別的特権主張でしかない当事者論は、本人の側も、支援者の側も、幼児的ナルシシズムを発露しているだけであり、短期的・戦術的には有益なスタンスであり得ても、長期的な方針ではあり得ない。それは、公正かつそのつど脱法的な、プロセスとしての自己検証を欠いている。



*1:逆にいえば、努力のフレームすら見失っている(失われている)のがデフォルト(初期設定、常態)。

*2:極端に権力的な振る舞いだ

*3:実際に、このようにつぶやいた自称左翼がいた。▼このような「無責任なメタ的態度の維持」については、ひきこもる人も他人事ではないはずだ。

*4:何度も繰り返すが、そうしたものですら、実際に弱者の役に立つ。だから、「正義の味方」ぶる卑劣な強者は、あんがい弱者の味方を得る。

*5:微妙な交渉関係においては、両方あるいは片方が「100%納得する」ことはほとんどない。

遵法の強制力と、脱法的倫理の受傷性

実定法に従うだけの形式的な遵法精神が、パブリックな公正さの観点からも、私的な欲望の観点からも維持できないとすれば、検討される必要があるのは、「脱法的な公正さ」だろう。(そんなものがあり得るのか、あり得るとしたらどのようなものか。)
なんらかの関係に巻き込まれた主体として「自分で自分のことを研究する」のは、自分の権限で自分のリアリティを問題にし、もって自己の責任の強度を維持することであり、それは交渉関係の必須条件ですらある(それを見失ったら交渉の倫理的リアリティ自体が霧消する)。ただひたすらに遵法的なだけでは、私は奴隷的にしか去勢のフレームを維持できない。それでは真に必然的な去勢のフレームを見失う(自分の現実がわからなくなる)。▼とはいえ、その個人的なリアリティの追究は、幼児的万能感に満たされるべきではない。(自分にそんなものが許容されるべきだとしたら、他者にも許容されるべきだろう。それでは収拾不可能の戦争だ。*1


遵法的な公正さは、たとえそれが欺瞞的なものであっても、制度的な強制力をもつ。

 イェーリングは、強制をともなわない法は、燃えていない火というような、それ自体に矛盾を含むものであるといっている。このことは、法が強制を本質的要素とすることをいいあらわしている。(『現代法学入門 (有斐閣双書)』p.17)

必要なのは、それを単に虚構だといって「真実の公正さ」をイデオロギー的に標榜することではなく(それは別種の暴力が公正を詐称することでしかない*2)、そのつどそのつど、「脱法的な公正さ」を手仕事で(プロセスとして)実現するよう、構成し直すことだろう*3。 それは、単に制度順応することでも、単に脱法的になることでもない。 【そもそも、単に脱法的なだけでは、単に制度外の存在として遺棄されるだけだ。ひきこもっている人間は、ひきこもることにおいてすでに家族制度の中に巻き込まれている(参照)。そして、経済的な取引の制度に入っていけないようでは、そのままなし崩しに死ぬしかない。】

問題は、大きく次の二つ。

    • 脱法的な手仕事は、制度的な強制力を持たないために、確率的な活動にしかならない(いわば「詩人の出現を待つ」というような)。
    • その手仕事は、倫理的には英雄的であり得ても、それに従事する人の受傷性をあまりに高めてしまう。

これでは、シニカルな遵法主義や、夜郎自大の当事者ナルシシズムに負けてしまう(政治的実効力をもち得ない)。
自己分析や制度分析に誠実であろうとする態度は、往々にして、偶然巻き込まれただけのくだらない争いにすら全力を投じてしまう。これでは、人材とエネルギーの浪費だ。切れば血の出る生身の言葉(参照)は、何らかの戦略性(ストラテジー)を持つ必要がある。



*1:こうしたところでようやく私は、ホッブズらの議論につながった。

*2:正義を標榜する人間の多くは、フェアな自己分析を欠いている(と私は感じている)。みずからの当事者的リアリティについては、きわめて稚拙な言説しか持っていないのではないだろうか。

*3:私の理解する「制度改編主義」とは、そういうものだ。