実定法に従うだけの形式的な遵法精神が、パブリックな公正さの観点からも、私的な欲望の観点からも維持できないとすれば、検討される必要があるのは、「脱法的な公正さ」だろう。(そんなものがあり得るのか、あり得るとしたらどのようなものか。)
なんらかの関係に巻き込まれた主体として「自分で自分のことを研究する」のは、自分の権限で自分のリアリティを問題にし、もって自己の責任の強度を維持することであり、それは交渉関係の必須条件ですらある(それを見失ったら交渉の倫理的リアリティ自体が霧消する)。ただひたすらに遵法的なだけでは、私は奴隷的にしか去勢のフレームを維持できない。それでは真に必然的な去勢のフレームを見失う(自分の現実がわからなくなる)。▼とはいえ、その個人的なリアリティの追究は、幼児的万能感に満たされるべきではない。(自分にそんなものが許容されるべきだとしたら、他者にも許容されるべきだろう。それでは収拾不可能の戦争だ。*1)
遵法的な公正さは、たとえそれが欺瞞的なものであっても、制度的な強制力をもつ。
イェーリングは、強制をともなわない法は、燃えていない火というような、それ自体に矛盾を含むものであるといっている。このことは、法が強制を本質的要素とすることをいいあらわしている。(『現代法学入門 (有斐閣双書)』p.17)
必要なのは、それを単に虚構だといって「真実の公正さ」をイデオロギー的に標榜することではなく(それは別種の暴力が公正を詐称することでしかない*2)、そのつどそのつど、「脱法的な公正さ」を手仕事で(プロセスとして)実現するよう、構成し直すことだろう*3。 それは、単に制度順応することでも、単に脱法的になることでもない。 【そもそも、単に脱法的なだけでは、単に制度外の存在として遺棄されるだけだ。ひきこもっている人間は、ひきこもることにおいてすでに家族制度の中に巻き込まれている(参照)。そして、経済的な取引の制度に入っていけないようでは、そのままなし崩しに死ぬしかない。】
問題は、大きく次の二つ。
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- 脱法的な手仕事は、制度的な強制力を持たないために、確率的な活動にしかならない(いわば「詩人の出現を待つ」というような)。
- その手仕事は、倫理的には英雄的であり得ても、それに従事する人の受傷性をあまりに高めてしまう。
これでは、シニカルな遵法主義や、夜郎自大の当事者ナルシシズムに負けてしまう(政治的実効力をもち得ない)。
自己分析や制度分析に誠実であろうとする態度は、往々にして、偶然巻き込まれただけのくだらない争いにすら全力を投じてしまう。これでは、人材とエネルギーの浪費だ。切れば血の出る生身の言葉(参照)は、何らかの戦略性(ストラテジー)を持つ必要がある。