ひきこもり支援のサービス契約

ひきこもりの「支援」では、(1)本人、(2)親、(3)支援者 の三者で、思惑や立場がよくわからない。そもそも、本人は訪問などの支援サービスを望んでおらず、親が支援者に頼んだだけということも多い。そうすると、そのサービス契約は、「親と支援者の間で結ばれたものが、本人に向かう」という構図になる。ヘタをすると、「壊れた車を直してくれ」という話に近くなってしまう。
「100%本人の願望を満たす」ことが、最終的に本人の目指す状態を実現するとは限らない*1。 そもそも、金を払うのは親だから*2、親の意向は無視できない。
誰のどの欲望がどんな回路を通って実現されるのか。何がどうであればサービス契約の債務が履行されたことになるのか。その枠組みの線引きがいちいち難しい。各人の裁量に任されているはずの家族内の問題が、サービス契約の内容になっている。
たとえば、「一生働かずにいられるような環境を整えてくれ」という要望が、サービス契約の内容としてあり得るだろうか。もしそうであり得るなら、たとえばベーシック・インカムを実現するための活動は、長期的・間接的な「ひきこもり支援」として、投資や寄付の対象になり得る。



*1:閉じこもり続けたいと思っているのか、それとも何とか社会生活を送りたいと思っているのか、それすらも曖昧だ。

*2:サービス契約の直接の当事者は親だろう。

「家族の契約化」

 「『家族法における契約化』をめぐる一考察──社会的に承認された契約類型としての婚姻──」と題された大村敦志東京大学教授の報告は、2003年12月に行われたマティ教授の報告と内容的に呼応するものである。「家族の契約化」という概念そのものがフランス法の議論状況による設定であるが、大村教授の報告は、そのような観点から既存の議論を紹介・検討することはせず、新たな視点からのアプローチをするものであった。すなわち、「契約化」とは何を意味するのか、さらに言えば「契約」とは何かという視点である。その視点から、「脱制度化」としての契約化──「拘束としての制度」からの解放、と、「(再)制度化」としての契約化──「社会的に承認(支援)された契約」の構築、という二つの側面から婚姻の「契約化」が検討され、そのうえで「契約」という観点から「婚姻」が多面的・包括的に再検討された。契約は制度であるという観点からアソシアション*1との対比がなされるなど、きわめて広い射程と深い内容をもつ報告であり、報告後も活発な質疑が行われた。

親子の関係も、こうした「契約=再制度化」で考えることはできるだろうか。
ガタリ三脇康生らの「制度改編主義精神療法」は、こうした法学的な議論を参照する必要があると思う*2



*1:会、団体、結社(association)

*2:これについては、あらためて考える。