今日のエントリーは、全体で一つです。
上記リンク先から、私が出演させていただいた12月15日放送分を聞くことができます。
番組の冒頭で、永冨奈津恵氏は次のように語っています。
今回、上山和樹さんをお呼びしたんですけれども、お呼びしておいて言うのもなんですが、実は私は、ひきこもり当事者の方々がしゃべるのに消極的なんです。 最初のうち、90年代ぐらいまでは、すごく積極的に「当事者ほど語ろうよ」みたいな話をしていました。 【中略】 でもここ数年で、一転消極的になってしまった。
- (1) ひきこもりって、すごく人生に関わっていること。 「自分の半生を不特定多数の前で語るのは、すごい大変なことだ」ということに、それまで気付いていなかった、という反省。
- (2) まさにいま苦しさの渦中にある人たちが、その苦しさを固めて語る、文章にするっていうことで、その苦しさ自体を塗り固めてしまってそこから出られなくなってしまうんじゃないか、という不安がどうしてもある。
- (3) そういった当事者の話を聞く側の問題として、これはメディアの問題も大いにあると思うんですけれども、ある特定の一人の個人的な苦しみをみんなが聞いて、「ああ、これこそがひきこもりなんだ」とみんなが納得して――たとえば上山和樹さんがお喋りになったことは、上山さんの「個人的な苦しみ」かもしれないのに、「それこそがひきこもりなんだ」「上山和樹=ひきこもり」みたいなイメージが出てしまうんじゃないか。 ▼第1回目の放送でも私は何度も何度も言いましたが、ひきこもりというのは本当に多種多様なので、今日も上山さんにおいでいただきましたけれども、たくさんあるひきこもりのケースの、「ある一例」というふうに聞いていただければと思います。
ここで永冨氏が語っていることは、問題意識としては妥当なものです。*1
これに関連し、一部支援者からは次のような指摘も出されています。
「当事者発言である」というだけで、その内容が神聖視されてしまい、誰も批判できなくなる。
これは、貴戸理恵氏と東京シューレの案件において論題化されていたものですが、やはり妥当な批判というべきです。
以上を整理すると、次のようになります。
*1:私が「属性当事者から課題当事者へ」と論じたのは、(3) の問題意識にかかわることです。
- 【1】 社会的な意義と、個人的な負荷とのバランス。
- 「当事者発言」は、本人にとっての危険を伴う。
- 【2】 言葉との付き合い方の問題。 「考えれば考えるほどしんどくなる」可能性がある。
- そのような姿勢が伝播すれば、他の当事者にも悪い影響が出るだろう。
- 【3】 活動を試みた人が持ってしまう「代表 representation 機能」の問題。
- ひきこもりは、深刻さも個別事情も多様である。 言葉のレベルでいくら「自分は一事例にすぎない」と言ったところで、ある程度目立ってしまえば、「代表」であるかのごとく機能してしまう。
- 【4】 「当事者発言」の神聖視。
- 発言が特権化されてしまい、リベラルな議論ができない。
文章化。
支援者や評論家のおこなうひきこもり論は、社会的意義やリスクへの自覚も含め、大人の判断力で行なう公的活動である。 しかし経験当事者のおこなうひきこもり論は、特権に居直った私的な《自分語り》でしかない。 「自分が助かりたいから、ワガママ放題に自分の話をしているだけ」であり、ひきこもり業界の迷惑になっている。
【追記】: この↑文章は、私がこれまでに様々な機会に聞かされてきた声をもとに、私自身が起草したものです。 永冨氏が、直接このようなことを言ったわけではありません。 ▼自他の「当事者発言」を反省的に考えるために、今後時間をかけて検討するべきテーゼを、私自身が文章化して掲げたものです。
マスコミ出演や著作の形を取らなくとも、《当事者》がなにがしかの形で自分の声を伝える努力をすれば、そこにはすでに 「That's 当事者の声」 の尊重構造が出現してしまいます*1。 ▼ひきこもりは、とりわけ「不可視かつ声がない」存在ですから、「当事者である」という人がちょっとでも発言を試みれば、真の未開地から出現した伝説の原住民が語りだしたかのような尊重を受けることになる。 ――そこでは、誤った代表性と公私混同とが、常態となってしまう。
番組の中でも触れていますが、私の本は前半と後半に分かれていて、前半は私の(まさに特殊な一事例でしかない)個人史の記録。 後半は、公共的な意義を目指した「ひきこもり論」になっているのですが、どうやら永冨氏は、拙著の後半部分についても、「上山個人にしか当てはまらない私的価値観の押し付け」と考えているようです。 ▼私がこのブログや原稿仕事を廃業しても、「議論を試みる当事者」が出てくれば、また同じ構図で批判されるでしょう――「内容」という以前に、「経歴と立ち位置」のゆえに。
私は、「《語られる存在》から《語る存在》になる」ことを目指していたのですが、《ひきこもりの当事者発言は、原理的に禁止されるべきである》という主張*2は、理論的な装いを持つがゆえに、政治的に機能するものです。 それゆえ、これへの反論も、単に感情的にではなく、「理論的に」する必要がある。
そこで気付いたのですが、実は「理論的に」それゆえ「政治的に」反論すべきである、というその要請自身が、ここでの問題にパフォーマティブ(行為遂行的)に答えを出しています。 ひきこもりに限らず、当事者発言に権限があり得るとしても、それには関係者相互の事情を公正に調整する役割理論的な制限が必要だし、そのような制限を身に帯びつつ、政治的に振る舞うことに成功しなければならない。
ひきこもり問題の当事者や経験者は、単に野放図に肯定されるべきでも、単に無条件に抑圧されるべきでもなく(いずれも政治的に不当といえる)、対等な権限を持った関係者の一人として、政治的な交渉主体になる必要がある(それがひきこもり支援の目的)。 ▼それは、「ひきこもりは肯定されるべきか否か」という問いに対する、私なりの答えでもあります。
「誰かが当事者として特権的に注目され、しかしその特権が剥奪される」という順番ではなく、むしろ話は逆で、「全員が交渉関係の当事者として、欲望のリアリティと責任の理論的根拠を問われる」。 ▼このような意味において、ひきこもり支援は「被支援者を政治的主体にすること」であり、そのような活動を通じて、支援者自身が、みずから政治的主体であることに目覚める――。
ひきこもり支援は、相互に政治的主体として覚醒するプロセスである、と。
*1:「一般人が発言するとすごい反論が来るが、当事者が発言するとみんなシーンと聞き入ってしまう」など。 ▼たとえば2ちゃんねるの書き込みですら、「当事者だな」と気付かれた途端、発言の意味や重みが変わってしまう。
*2:私に対する「議論をやめろ」という主張は、以前から存在していました。