出発点:「兄が引きこもり、リアルで氏んでほしい」*2

1 :さやか :2005/11/18(金) 08:40:51 ID:TIxiS8Q30
  夜中にこそこそ冷蔵庫漁るなカスが

18 :(-_-)さん :2005/11/18(金) 09:06:43 ID:???O
  ホントは冷たくされるのが怖いから
  夜中にコソコソ起きたりするんだ。
  このまま突き放し続けたら
  対人恐怖症とか、精神病になると思うぞ。

45 :さやか :2005/11/18(金) 20:14:58 ID:???0
  はぁ?家族だからって最低限の義務も果たさないやつがいつまでも暖かくされると思ってんの?
  あんたらおかしいでしょ、父も23になったら放り出すって言ってたよ
  死のうがどうなろうがしったこっちゃないって

48 :(-_-)さん :2005/11/18(金) 20:17:38 ID:???0
  1さん、うちの兄も25にもなってヒキコモリです
  気持ちわかります、ほんと消えてほしいですよねゴミ人間

61 :(-_-)さん :2005/11/18(金) 20:38:23 ID:???0
  うちの兄もひきこもりです。冷蔵庫は漁りませんがよく親に飯作れとか命令するし。
  早く死ねばいいと思う。

65 :(-_-)さん :2005/11/18(金) 20:55:13 ID:vXhWoizE0
  ヒキコモリ本人にはわからないだろうけど
  身の回りにヒキコモリが居る家の人間はみんな1みたいに思ってます
  本音を言われてうざいと言うようじゃ社会じゃやってけないよ

95 :(-_-)さん :2005/11/20(日) 07:48:15 ID:0ARI2cg2O
  ウチにも引きこもりいる
  いっそのこと自殺でもしてくれってみんな思ってる
  家族だから暖かくしろって身近に引きこもりが居ない
  人のきれいごとだと思う

102 :(-_-)さん :2005/11/20(日) 13:33:29 ID:???0
  姪がひきこもり
  中卒18歳でデブでオタク 体重は0.1トン位
  いわゆるゴスロリ服愛好者でリスカ馬鹿
  掃除洗濯料理はまったくしない。
  義姉が長生きするか
  死ぬ時はデブを道づれにしてくれる事を夫婦で切望。

129 :(-_-)さん :2005/11/28(月) 00:04:30 ID:???0
  ごめん。マジレスで長文スマソ
  2年ひきこもっているのは自分のせいだとという遺書があったよ。
  親父は泣いてたな・・・。警察とかもきて色々聞かれたけどよく覚えてない。
  親戚や学校の担任もきて慰めの言葉だったようだけど頭に入らなかった。
  俺が母さんを殺したようようなもんだ。いまから自殺する。
  ここに書き込んだのはこれが一種の遺書になると思うから。
  2chに出会ってよかった。いろいろ話ができて幸せだった。




《交渉》と動機付け――「教育」と「労働」を駆動するもの

ひきこもりの話は、「抽象的規範としての閉じこもる権利」*1を確保したあとは、教育と労働における《動機付け》*2および《交渉》の話だ。 ▼動機付けを極限的に(生をあきらめるほどに)失敗しているが、その失敗において、貧しい形ではあるが「閉じこもる」という状態像に向けて動機付けられている(最後の自衛手段として)。 その状態は、家族との交換関係において成り立っている――いや、多くの場合において、実は「成り立って」いない。


斎藤環は「数人の仲間ができればあとは自分で動いてゆく」というのだが、これは「動機付け」要素を「仲間関係」に限定している*3。 私自身や周囲の様子を見ていると、これはどうもあまりうまくいかない。 「仲間ができる」までは行っても、「就労する」ための動機付けにはなりにくい。 要するに「生命」がかかった状態において初めて「就労するか否か」が根源的に問われ、仲間関係はそこにおける重要な支援要素(動機付け)となる。 問題はその前段階にある、家族との交渉関係だ。 ▼賃労働は耐え難い。 生きなくてすむなら働きたくない。 「生き延びなくてはならない」という狂信的確信があるからこそ、軋轢が生じる。 ▼「働きたくないが生き延びたい」という人間は、必然的に周囲に扶養を強制している。 その願いも、もちろん交渉関係において、等価交換的に成立し得る。 《交渉》が成立しなければ、それは当事者側から家族に向けた強制行為になる。 「親の意図せざる扶養行為を無理やり継続させている」。 ▼「本当に死にたい(殺したい)のか?」という動機付けが、たぶん最終的な交渉テーマになる。【自分自身との交渉も含め。】


当事者が発言権を得る(上野千鶴子当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』)とは、当事者自身が教育的機能を周囲に発揮することを意味しないか。 医療や支援の関係を、労働における「される」ことと考えれば、当事者主権とは当事者による周囲への労働(「する」こと)と言える。 ▼当事者における、「される」「順応する」ばかりではなく、「する」「教育する」の側面が重視されるべき。――だとすれば、それは無際限な権利であっていいはずはない。 当事者による権限濫用もあり得る。 つまり「当事者主権」とは、「教育者の権限」を参照する必要を内在的に持つ。*4


過労児」に典型的なように、ひきこもりというのは、順応労役の破綻と言える。 つまり受動性の破綻において自分が動機付けられなくなった状態。 だから立ち直りとは、「順応の再興」ではなく、「能動性の再興」にあたる。


社会参加には訓練=教育を必要とする。 「教育される」モチベーションは何だろう。 ▼社会参加に向けて動機付けられないのであれば、「教育される」動機付けは生まれない。 【「自己を教育する労働」への取り組み】
「教育される」動機付けが生まれないまま、「消費主体+苦悩実存+加害者」としての時間が延々続く。 昔は共同体的な生活環境が「教育」的=「労働への急き立て」的に機能したが現在はそれがなく、個人関係は経済的交渉関係(労使・顧客)以外には影響力を無視できる。→ クレームをつける家族自身が孤立している。 ▼上記のような「当事者主権」の見地に立てば、ひきこもり当事者が周囲に漏らす鬱憤は「権力のない教師の愚痴」だ。 「どうして理解してくれないのか!」云々。 ▼繰り返すが、教師に職権濫用があるように、当事者権限にも濫用がある。 無際限に権力=権限=権利が使えるわけではない。 権利は有限なものだ。 その限界確定に、自己言及的な《批評=教育》がある。それは同時に人的資本蓄積のプロセスになっている。 ▼個人の自己管理力や規範意識も「人的資本」の一環となる。(ハイデガーにとって「存在論ができる」ことは彼の人的資本だった。→ 何をもって「人的資本」とみなすかは、時代的・政治的な判断。)
厄介なことに、《交渉》こそが、ひきこもり当事者の最も苦手な社会スキルだったりする。 逆に言えば、《交渉》の契機の中に、育むべき社会スキルと「動機付け」の萌芽がないか

    • ★《交渉=契約》の階層性。 家族レベルから、国家レベルまで。




*1:「生活費の捻出」という経済的要請とは別に要請される、《マトモな人間たるものは働かねばならない》といった一方的規範の無効化。▼経済的要請と、規範的要請は峻別すべきだ。

*2:「人間たるもの働くベシ」という一方的規範を無効化したあとにも、「生き延びる」という課題が残り続けるのであれば、「働くこと・能力を高めること」に向けて動機付けられる必要がある。 その動機付けをあきらめるとは、「死ぬ」ということ。 死に向けて動機付けられる、ということ。

*3:彼は精神科医としての自分のミッションを「仲間ができるまで」に限定している。 「就労に向けての規範注入」などは、斎藤環の臨床思想から最も遠い。――ただ彼は、臨床家としては「過激な折衷派」とのことで、臨床実践においてはいろいろ言うのだろう(このレベルで絡まれている話は不毛すぎる)。

*4:やみくもな権限主張をする当事者に、「教師になる」覚悟はあるのか。 教える側に回って影響力を行使する恐ろしさ。

稲葉振一郎氏の発言から引用

論点を(また)整理するよ。

ところがここから、つまり労働需要をいかに喚起するか、をめぐってひとつ対立が生じる。リフレ派としては基本的にマクロ的総需要を喚起して、そこから派生的に労働需要を喚起するという提案をするのみであるが、内藤、そして本田由紀の場合には(どうも不分明なところが多いが)、労働需要の直接的主体たる雇用者、企業の構造改革を望んでいるように思われる。更に本田の場合は、そして最近では内藤の発言においても、これに加えて学校教育における職業教育的側面の見直しを含めて、労働市場構造の総体的な改革が展望されている。
 そうなるとリフレ派には、逆説的にも、内藤や本田と玄田有史との区別がうまくできなくなってしまうのではないか。少なくとも私はそうである。ことに労働市場改革を強調されると、それもまた一種の「エンパワメント」としか理解できない。そして玄田に対する批判も一種の近親憎悪に見えてくる。つまり無反省に(あるいは確信犯的に)エンパワメントを高唱する玄田に対して「恥を知れ」と言っているだけであり、自らは恥を知りつつつつましく別様の「エンパワメント」を構想している――と。
 たしかに、時にニート層の人々自身の「責任」を問う方向にぶれる玄田に対して、あくまでもそれを否定しようとする内藤、本田の気分には共感できるし、それは健全だと思う。しかし代わりに企業や学校の「責任」を問い、そこに問題の核心を見出すのであれば、筋違いではないか、とリフレ派としては考えざるを得ない。仮にそうした不毛な「悪者探し」をするのではなく、誰も責任を取らない/取れない隙間に落っこちてしまった人々のエンパワメントを目指すのだとしても、それは要するに再分配であり、そのための財源を十分にとりたいのであれば、やはり先立つものは金であり、景気総体の回復である。
 そうした「隙間」をなくし、不景気などのショックに対してロバストな経済・社会構造を考える、という課題はそれ自体としては興味深いが、それは今さしあたっての問題ではない。それはまさに長期的な課題としてしかありえない。(おそらくはいかなる意味での「隙間」もまったく無い社会などありえず、そのような「隙間」に対して我々に、究極的には、小手先の対症療法しかなしえない。もちろん「隙間」のできにくい社会を創る、ということの意義を否定するものではまったく無いが。)個人的には、不況をしのぎやすい経済社会は、逆に好景気の恩恵を受けにくい社会なんではないか、とも危惧する。(『教養』第8章参照。)これは多分平等主義とも関係しそうだ。


縮尺1分の1の地図は使い物にならない

もちろんもっとリアルな、現実に近いモデルを求める努力は必要ですが、それはモデルの簡便性を犠牲にしない限りでのことでしょう。もっとも詳しい地図は縮尺1分の1の地図です。そんなものはつかいものになりません。そうではなくて、ツボを抑えることが大事なのです。「リアルじゃない」じゃなく「ツボを外してる」が理論モデルへの批判の基本でしょう。
よりリアルな(かつツボを心得た)人間モデルの探究者の中でも大物と言えばノーベル賞アカロフですが、最近梶谷さんがレポートしてくれている講演などは、本田さんの期待に応えてくれるんじゃないかな。彼の最近のテーマはアイデンティティの経済学」ですしね。講演本体がhttp://www.econ.yale.edu/~shiller/behmacro/2005-11/akerlof.pdfで、梶谷さんのレポートがhttp://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20051118#p2からその続きね。






「経済主体の行動原理」の《モデル化》について

ケインズ経済学の逆襲!」(梶谷懐id:kaikaji 氏)

さて、マクロ経済学における'the Missing Motivation'というのは何のことだろうか。これは、70年代においてそれまでのケインズ経済学にかわって学界の主流となったミクロ的な基礎付けを持つとされる新古典派マクロ経済学が、実は個々の経済主体の行動に関する「モチベーション」に関する基礎付けを欠いているのじゃないか、ということを指摘したものである。


アカロフ先生講演メモ――「動機付け」と「規範」」(同氏)

その批判の理論的コアとなっている、経済主体の行動原理を考える際の「動機付け」の必要性について述べておこう。
 マクロ経済学の「ミクロ的基礎付け」という時、とりもなおさずモデルが個人(あるいは企業)の効用最大化原理に基づいている、ということを意味する。しかし、その際の「効用」とはなにか、という点に関してはそれほど深い考察と議論がなされてきたとは言えず、結局のところそれは金銭的な利得によって代替されてきたといってよい。しかし、実際には個人の「効用」には金銭的な利得であらわされないものも含まれているはずである。したがって経済主体の行動を「効用最大化」として理解するには、そこに働く金銭的なもの以外の「動機付け」に注目することが必要となる
 その「動機付け」の具体例として、アカロフ氏は「登山家がなぜ山に登るか」「教師はなぜ教えるか」「Milgromによるアイヒマン実験」などをあげるが、中でも興味深いのはアメリカの社会学者・ゴフマンによるメリーゴーラウンドで遊ぶ子供の例である。言うまでもないことだが、メリーゴーラウンドで楽しく遊べるのはある一定の年齢以下の子供であり、ある程度大きくなると面白くなくなる(効用を得られなくなる)。なぜか。自分にとってあまりに容易すぎる行為を行うことに対する動機付けが働かなくなるからである。これは大人になってからの仕事にも言えることであり、一定の能力があるにもかかわらずあまりに簡単な仕事ばかりを与えられるとやる気が失われる。これは、個人をしてある行為(経済的な行為を含む)を選択せしめる「動機付け」は、必ずしも金銭的なものに限られない、という一つの例である。
 このような金銭的なものではない行為の「動機付け」を与えるものとして、「規範(norm)」の存在を考えることの重要性をアカロフ氏は強調する。そしてこれまでの経済学における効用理論には、このような「規範」に関する考察が欠けていたと指摘する。

社会に出ることが異様に困難だとして、その困難さを乗り越えてでも就労する「動機付け」はどこにあるか。「侮辱・排除されるから」 「家族に迷惑がかかるから」。 説教派はそのどちらかに向けて動機付けようとするが失敗する。 動機付けがうまくいかなければ《強制》しかなくなる。 ▼本人にはそこで「死ぬ」という選択肢が登場する。【彼(女)が死ぬことを嫌がる人は現実にはいないかもしれない。】



整備

この執筆作業自体は、私の動機付けを整備するために為された。
何かに取り組んで成果を出すとは、次なる動機付けを準備する作業になっている*1



*1:ひきこもりとは、次なる動機付けを滅却する作業になっている。