「メタ-当事者-学」?

ある社会運動に関わっている方とお話しする機会があったのですが、ひきこもりに関する活動で僕が直面する諸問題と、驚くほど同じ問題に直面しておられました。学問的ラディカリズムと現場のプラグマティズムとの齟齬(各々における戦略的無自覚さ)、当事者がみずからの「当事者性」に居直ること(当事者として批評されることがあり得るという事実への拒絶)、など。
(1)学問(2)現場(3)当事者、の3者が、それぞれにおいてベタにみずからの属性ミッションを生きることしかせず、痛みを伴う「メタ視点の導入」というチャレンジをしない。そこには、魯鈍な自己肯定(アリバイ主張)しかない。「私は○○なんだから、ちゃんとやってるじゃないか」。


私は以前、「メタ当事者学」という言い方をした。このときには、「当事者学」とは何であるかを考える、というだけの意味だったが、お話を通じ、さらにいくつかの示唆を頂いた。暫定的に整理してみる。

  • メタ的な当事者学
    • 当事者であるとはどういうことか、またそこから発生する「当事者学」とは何か。
  • メタ当事者の学
    • 属性的には明白な紛争当事者であるわけではないが、問題の性質を考察することを通じて(つまりメタ的に)、紛争の当事者になる(私の言い方で言うと「課題当事者」にあたる)。そういう現象について考察する。
  • メタ的であることの当事者学
    • どんなジャンルの活動であれ、その活動そのものをメタ的に考察することを試みる人が、ごくわずかにピンポイントで存在する。そのような人々同士は、具体的に取り組んでいる問題はまったく違うのに、なぜか多くの問題意識を――異様なほど――共有する。これは何か。




痛みとしての「メタの維持」

「メタ」とは、「高みに立って見下ろす」、「雲の上から小便*1」というような、安全圏の視点設定ではない。トラブルの渦中にあって、みずからを含むすべてを括弧に入れ、その「問題化視点」という痛みの実存そのものを我慢強く維持しようと努める、その危うい宙吊りプロセスそのもののことだ。メタとは痛みの実存だ。さもなければ、「分析の consistency」(三脇康生)は維持できない。



内側から

人間は外的な自然に対して脆弱であるばかりでなく、内的な自然に対してさらに脆弱である。情念を放置すれば、たちまちそれは人間をのみつくす。人間が人間存在であるためには、この自然をたえず加工する「精神の錬金術」が不可欠である。これと闘うのではなく加工するのでなければならない。*1

僕は最近、とある加工を精神にほどこした、かなり効果覿面だ。
顛末についてはもう少ししてからご報告する。



*1:現代という時代の気質 (晶文選書)』p.148、柄谷行人によるあとがき「E・ホッファーについて」より

黒沢清『アカルイミライ』

映画論的なことは何も分からないが、
有田家のリサイクルショップ店内で藤竜也オダギリジョーが言い争うシーンを観てから、興奮してしまって、あとのシーンをあまり覚えてない。(正直に告白すれば、部屋で観ながら独り言で関係ないことを怒鳴ったりしてしまった、深夜なのに。)
【※ネタバレの困る人は以下の記述注意。シナリオ引用もあります。】


・有田の親父(有田):藤竜也
・井村:オダギリジョー

有田: クラゲ、きれいだった。 でも、それでどうなる? 何か現実が変わるの? 少しでも自分の思い通りに、なるの?
井村: 知らないよ! ほっとけよ!
有田: ほっといたら君はこれから、どうなるんだよ!
井村: ほっとけよ!
有田: ほっとけないんだよ! もう、じれったくてしょうがないんだよ。 ね。 どうして君はこの、目の前を見ようとしないの? え? どうしてこの現実をさ、見ようとしないんだよ。 薄汚くて不潔だからか? そりゃ君失礼だぞ、おい。 この現実はな、私の現実でもあるんだよ! 君がないがしろにする権利なんか、ないんだよ、ばか者!
(逃げる井村)
有田: 逃げるのか、よし、逃げろ! 逃げろ逃げろ! どこに逃げるんだそれで。 え、井村君、どこに逃げる! 君が逃げ込める先はな、2つしかないんだ。 一つは夢の中! 二つ目は刑務所の中だ! いいか!

僕は上記のやり取りは、そのまま引きこもりの家の中のやり取りとして聞いて、泣いてしまった。
単なる説教に見えて、ギリギリでそうじゃない気がするんだが。

「どうして君はこの、目の前を見ようとしないの? え? どうしてこの現実をさ、見ようとしないんだよ。 薄汚くて不潔だからか? そりゃ君失礼だぞ、おい。 この現実はな、私の現実でもあるんだよ! 君がないがしろにする権利なんか、ないんだよ、ばか者!

なんで泣いたんだ。 なんか俺の罪悪感に抵触した。