時間との付き合いかた――映画『インターステラー』

ueyamakzk2014-12-01

以下、ネタバレ注意。








人類は、ということは言葉は、ナマの時間をめぐっては、
素朴な形でしか資源化できていない*1。この映画は、

 時間をめぐって、今とは違う努力を開発できるか

という人類史的な問いを思い出させてくれる。


本作では、重力制御のカギをつかむには、ブラックホール中心部のデータを持ち帰る必要があるとされていて、しかしそれは原理的にできないので、*2

    • 人類には重力制御はできない
    • 相対論的効果で時間が延びたり縮んだりはしても、時間を逆戻りすることはできない

という設定だった。



理論とナマの時間

この映画には、

 時間を語る理論には自己言及があるので無意味

というニュアンスのセリフがあるのだが、*3
たとえば「E=mc2という有名な式にしても、項の関係を静的に記しただけで、式そのものは無時間的だ。ところが私たちは時間的存在なので、理論を扱う作業がどうしても時間的になる。私たちの生は、理論そのものを含め、素朴な時間から抜け出すことが出来ない。

ここの時間性を、物理理論はまったく扱えていないように見えるのだ。学者は、数式のロジカルな意味にばかりこだわって、その数式が時間的に生きられるしかないことを忘れている――本作のセリフは、そこに触れたんじゃないか? ここは何としてもあとで確認したい。



ナマの時間との付き合いかた

主人公が仕方なく迷い込んだ「事象の地平面」内部には、私たちの暮らす時空に新しい操作可能性を与える新しい次元があり、ここで彼は、出発前の愛娘と、その娘と言い争う自分を目にする。*4


この新しい次元がなければ、娘とは再会できず、人類存続に必要なデータを娘に送ることもできなかったわけだが*5 ――それでは、重力と時間の操作可能性から見放された現実世界の私たちには、何ができるだろうか。


映画では、重力を制御できない人類は、素朴な時間に埋め込まれたまま、
意味づけできない投げやりな時間を生きるしかない。*6


現実の私たちは、今すぐに滅亡の危機にはないものの、
どうしても時間を操作できないなら、ナマの時間との関係の作り方を
(物理工学的な操作可能性とは別のかたちで)工夫するしかない。



【2014年12月4日の追記】時間と創造(PDF、「ICCオンライン」)

浅田彰による、イリヤ・プリゴジンへのインタビューより:

プリゴジン 不可逆な時間の流れというのは,自然界の重要な側面です.ところが,ニュートン以来の物理学は,物理学の基本法則が時間に関して可逆的だと考えてきた.ニュートン運動方程式は,時間 t−t で置き換えても変わらない.これは逆説的なことではないでしょうか.わたしは,時間を物理学の基本に組み込む必要があると思ったのです.

プリゴジン 人間は,進化の,つまりは時間のつくりだしたものなのであって,人間が時間をつくりだすのではないのです.

浅田彰 確か,若い頃にベルクソンを読んで時間の問題に関心をもったと言っておられましたね.そうした影響についてはどうでしょうか.

プリゴジン ベルクソンハイデガーは,本質的にはニュートン力学以外に科学がなかった時代の文脈において理解しなければなりません.それは,おっしゃるとおり,西洋の思考を「二つの文化」へと分割してしまった.ベルクソンハイデガーはその分割の例です.ベルクソンハイデガーの批判的な部分は,今でもなお興味深い.しかし,建設的な部分は,わたしの見るかぎりでは,もう時代遅れになってしまった.形而上学だけが時間の問題に答えることができると考え,「持続」とか「時熟」とかいった曖昧な概念をもちだしてくるからです.わたしはそうした哲学を大変興味深く読み,ある意味で励まされましたが,形而上学的な部分についてはもう関心をもてませんね.ベルクソンアインシュタインと論争しましたが,わたしはアインシュタインが間違っていると思う一方で,ベルクソンの議論もほとんど意味をなさないと思うのです.

浅田彰 〔…〕ある意味ではベルクソンの延長上にあるドゥルーズについてはいかがですか.

プリゴジン いくつか読んで,興味はもちましたが,率直に言って,わからないところが多かった.ベルクソンの「持続」のような形而上学的概念を取り上げなおすというのは,わたしの意見では,益のないことだと思います.現代の科学は,ニュートンアインシュタインの段階を超えて,時間や生成の問題を,より柔軟に,しかしあくまでも分析的に取り上げる段階に達している.わたしにとってはそのほうがずっと興味深いのです.

プリゴジン 物理学者が時間に敵意を示してきたのは,時間の不在こそ,神の視点に近づいていることの証拠だと考えられているからです.神にとって時間は存在しませんからね.これこそアインシュタインの見方であり,ホーキングの見方です.ホーキングは,アインシュタインのヴィジョンを受け継いで,物理学を幾何学化――つまりは空間化しようとしている.他方,わたしは物理学を時間化しようとしているのです.




*1:「時間は資源だ」という鮮烈なセリフがあった。

*2:事象の地平面というセリフが出てくる。この内部からデータを得ることはできない。

*3:成長したマーフが述べる。この通りの内容かどうか不明だが、観ていてとても興奮した。

*4:映画では父娘関係が中心だったが、各自が自分の愛情関係を思い出せばよい。「そんな相手はいない」としても、テーマは共有できる。→【《愛する相手がいない宇宙》に、居残る意義はあるだろうか。/自分だけ救おうとするのか、家族だけ守るのか、見ず知らずの相手まで救うのか。/愛する相手のいない宇宙に人類を存続させて何の意味がある?】――など。

*5:娘はデータをもとに新しい物理理論に到達するが、それがなければコロニーへの移住もできず、人類は地上で飢えるしかなかった。

*6:愛する人から引き離され、滅亡を待つ