嗜癖、個体化、党派性

追記的に承前



《切断-連続》の問題圏で必須なのは、以下の二つのモチーフ:


【1】個体化(有限な連続性)を、どうするか

    • 個体化(動詞的)*1はつねに時空間的に有限であり、個体という連続性は、その都度やり直さねばならない。連続性は、保証されていないしされるべきでもない。*2
    • 「ひきこもることしかできない」という状態が、萎縮した主観性に支えられているとき、これは選択された状態というより、たんに個体化に失敗している。



【2】党派性としての、環境の連続性

    • 環境はまず、私の再生産の様式も含めて「連続的」を擬制している*3。とはいえ擬制だからと言って、なかったことにできるわけではない。
    • とりわけ雇用・人事・労務。日本の雇用はメンバーシップ的であり、また「資本-労働」を批判する左派系でも、人脈上の影響力を通じて、党派的な抑圧が機能している。



非意味的切断を語ることは、それ自体が党派的な(連続的な)振る舞いであり得る。話題として「不連続」を語れば語るほど、党派的連続性への忠誠を再生産している場合がある。


「思い切った分析を口にすれば、環境から切り離されてしまう」なら、私は連続性に籠絡されている。このとき私は、(a)連続性の全体主義に迎合するか、(b)非意味的断片に沈没し、破綻するしかない。
そのいずれも嫌なら、分節の内的強度をもった個体化*4で、再起動を試みよう→それを抑圧するのは何か。ここに努力の焦点がある。


環境の党派的連続性は、分析の不連続な生成(内的強度による、有限な consistency)を禁じる。私は環境から瞬間ごとに身を引き剥がさねば自律的な分析を生きられない。


失敗した個体化をやり直すことは、いつの間にか、
党派的に排除される危険を冒すことになっている。



断片への依存症と、連続性への依存症は、切り離せるか

千葉『動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』より:*5

 ドゥルーズの動物への生成変化は〔…〕むしろ、世界を貧しくするべきなのである。生成変化によって世界を貧乏(ひんぼう)化する。それは、世界の有限化である。
 この場合、有限化という事態を、私は二つの意味で用いている。

  • (1)世界を構成する要素を少なくすること。
  • (2)世界を構成する要素に対する反省性を削ぐこと、つまり、事物に、痴呆的なしかたで「とらわれ」る、あるいは、中毒的になるということ。*6

 換言するなら、



フィルタリング・フレーミングの果てでの、非意味的断片の addiction 化は、この addiction を守る党派性≒連続性を暗に放置させ、分析の切断的生成を禁じてしまう。狭く限られた断片の依存的「とらわれ」は、党派性を再生産する。*7


非意味的断片に嗜癖するヒューム的依存症と、
意味的連続性に嗜癖するベルクソン的依存症は、
そんなに好都合に切り離せるだろうか。



ラボルド的な《制度》を、連続性と理解すれば、

制度分析とは、連続性の分析であり、*8
制度を使った精神療法」とは、連続性のありようを問題化しつつ、しかし連続性も活用しながら、これを組み換えながら行う活動といえる。
自らを含みこんだ制度を論じることは、党派性の組み直しとして、切断的な臨床事業になっている*9――ここで制度は、たんに「外側」ではない。


関係の外在性*10を前提にしても、論じる自らが加担する一定の連続性については、なかったことにできない。関係性は偶然的で外在的であるとは言っても、私はつねに、一定の連続性の再生産に加担してしまっている。それが、主観性の再生産までふくめた《制度》の問題だ。


私たちの一人ひとり、この瞬間瞬間は、
連続性をやり直すための酵母と言える。



【付記】 addiction の技法としての《形式的禁止

依存症のマネジメントで私に必須だったのが、《形式的な禁止》なのだが、この技法は、否定神学的なスタイルを採用している。――「否定神学的」というのは、

    • 禁止をめぐる具体的な根拠をいっさい認めず、
    • 実際の禁止を、《孔(あな)の表象で再生産するから。*11

千葉氏の本では、
否定神学は「切断的ドゥルーズ」と対立し、アディクション的な《動物への生成変化》と、相容れないように見える。また私じしん、自分の採用している「形式的禁止」と、制度分析的な技法との関連は、うまく掴みきれていない。これも生の技法≒ダイエットに即して、議論を続けたい。



*1:私が当事化という奇妙な動詞形を提案しているのは、まさに個体化のスタイルを問題にしている参照1】【参照2。これを名詞形で「当事者」と呼んでしまったら、個体化のスタイルまで規定されてしまうのだ。

*2:「虚構的ではない連続性の創造」は、人類史的な事業としてSF的にイメージすることしかできない(※アニメ作品『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 [DVD]』の「人類補完計画」など)。あるいは物理学の「Theory of Everything」も、連続性の夢だろうか。

*3:cf.「実のところ、関係はフィクションである」(ドゥルーズ経験論と主体性―ヒュームにおける人間的自然についての試論』p.156。千葉本のp.92に引用されている)

*4:ベルクソン的持続としてのアイオーン。つまり、有限な連続的時空間の、不連続で内発的な生成。

*5:強調や改行は引用者による。

*6:「依存」と「中毒」は、ていねいに概念を使い分けるべきだが、千葉氏はそこが曖昧になっている。参照:「「アルコール中毒」と「アルコール依存症」の違いについて――自己申告ですが、「元アルコール依存症専門治療病棟 看護師より」とのことで、私もほぼこの内容のように理解しています。】

*7:たとえば、ひきこもる家族内の状況がそうであるように。

*8:その際の「制度」には、自らの主観性が反復する連続性のスタイルも含まれる。

*9:廣瀬浩司はこの内在的な事情を、「制度的(制度における、制度に対する)精神療法」と、示唆的に描き直している(参照PDF)。▼《制度》を、みずからがそこに浸り込む連続性と理解できれば、これを切断的に吟味してやり直そうとする制度論が、自動的に《臨床実務そのもの》となることが理解できるだろう(参照)。

*10:千葉本の第2章

*11:私はこの方法で、2005年の秋から現在まで断酒を成功させている。この技法なしでは、生きていられたかどうかすら怪しい。