「私は完璧だ」――メタな規範談義のナルシシズム

この事件をめぐる議論が、あまりにズレている。
女性嫌悪と人種差別を規範的に説教し、
「良心的な知識人」のポーズを誇示して終わっている。*1


私はこの容疑者の言動を容認も肯定もしない。しかしみずからの規範的優位を示したところで、状況改善には役立たない。


容疑者の女性嫌悪と人種差別は、自己救済の回路として持ち出されている。他者からの性愛的承認に絶望し、そもそも他者を必要としない承認の回路をでっちあげること。――こういう回路を始めてしまえば、もはや説教には意味がない。それどころか説教は、断念と殺意の温床になる。*2


ドヤ顔の規範談義は、弱者を見下す文化を強める。それで環境を変えようとするのは、「自分だけは正義の味方」というナルシシズムを、問題への取り組みと勘違いすることにすぎない。



つまり

女性嫌悪や人種差別はいけないことだ」――こんな、メタ命題それ自体としては正しいことが分かりきった話を反復しても、自意識をこじらせる環境要因を悪化させることにしかならない。メタ命題はさっさと確認して終わらせて、あとは「うまく行っている」と自称する人たちも含め、関係性や自意識のやり直しが必要になる。


100%のメタ命題を連呼することは、規範的に相手を見下す態度を量産する。それ自体が防衛機制であり、主観性と関係性の技法としては、幼稚なままにとどまる。


女性嫌悪と人種差別をドヤ顔で糾弾する人が、身近ではいじめの加害者であるケースがいくつも見られるのは、どういうことか*3主観性と具体的な関係は、規範命題を反復してもうまく行かない*4 命題を連呼するだけでは、取り組んだことになっていない。


日頃から「童貞」をバカにしていた人間が、環境悪化への責任を取ろうともせず、弱者のバカげた犯行を嘲笑し、したり顔で説教する。「俺はモテるから」と、できない者を見下してふんぞり返る。――このマッチョ思想をやり直すつもりのない言説環境は、今後も殺意を増幅させる。


今回の容疑者を罵倒する人は、自分は容疑者とは違うタイプの人間であると思い込んでいるが、「メタな規範視点から相手を見下す」というスタイルにおいて、批判者たちとこの容疑者は、思考のスタイルを共有している*5 いずれにおいても、規範的見下しによる攻撃的嫌悪だけがあって、言葉ごと関係を作り直す作業は見られない。*6


「メタ的に正しいがゆえに私は正しい」という、ひたすら抽象的に自分を救済するタイプの正義論は、それ自体が自閉的・威圧的なナルシシズムとなっている。議論をここからやり直さねばならない。


これは、「弱者も愛してあげなくてはならない」などという話ではない。主観性と関係性のマネジメントを、メタ的威圧とは別の試行錯誤に置きなおす努力だ。



*1:女性による規範的説教には、何より事件への「恐怖」を感じるので、無理もないとは思うものの――説教という反応は、状況改善に役立つわけではない。▼男性フェミニストの言動は、もっとあからさまなヒーロー気取りを含む。「お前らみたいな人間のクズと違って、俺は女性の味方なんだ」というわけだ。

*2:PC的な規範命令は、奴隷的に屈服させようとするものでしかない。

*3:反差別の論者たちの、マッチョないじめ体質。この集団体質は、学問言説に直結しているように見える――それを検証できる議論ジャンルが必要だ。「メタで自閉的なナルシシズムの再生産装置としての学問言説」という嫌疑。

*4:規範命題を連呼することで維持される、そういうスタイルの関係性や中間集団があるにすぎない。左派系の全体主義がまさにこれに当たる。

*5:左派系の規範意識は、20世紀に数千万人規模の大量虐殺を生み出した。これはナチズムの10倍以上にもあたる。

*6:容疑者は「過去にアスペルガー症候群と診断されていた」という報道もあったが(参照)、今回の容疑者のような発想のあり方は、医療的診断など受けていなくても、何も珍しいものではない。またもし「診断名」で終わらせるなら、女性嫌悪や人種差別うんぬんの議論に意味がない。▼私はそもそも、DSM の診断枠の恣意性に懐疑の目を向けている(参照)。