《暴露≒分析》のスタイルこそが政治的な選択

特別シンポジウム 精神分析対談: 立木康介著『露出せよ、と現代文明は言う』をめぐって 立木康介 × 十川幸司


聴講してきました。

    • メタファー*1倒錯*2をめぐるお二人の考えについて、あるいは対立点について、もっと詳細に聞いてみたかったです。
    • ラカン派の鑑別診断について、「仮説のはずなのに、まるで存在論的な事実のように論じるのは過剰であり、ドグマ化だ」「これでは自我心理学と同じであり、古典的というか、保守的だ」(大意)と十川幸司氏がおっしゃったことに、勇気づけられました。
    • 「単独性はむしろ出発点」という十川氏の指摘は、臨床家ならではですが――しかしここに留まっては、プロセスとして実現される単独性の問題がないがしろにならないでしょうか。



最後に質問させていただいたのですが、以下はそれに関連して、
今後に向けての覚え書きです。



メモ



暴露に対して《メタファー≒置き換え》をやるべきだ、というのが立木氏の提案だったが(参照)――むしろ、暴露に見えて実は抑圧・隠蔽でしかないものを、別のスタイルでの《暴露≒政治化》に代えられないか。*3
「隠せ」というより、暴露技法そのものが問われている。私はその「別種の暴露活動」に、立木氏の言うセクシュアリティの提案を重ねたい。(たんに別のものだとは思えない)


冒頭で十川氏は、「文体を作り上げるのも分析家の作業」とおっしゃった。この「文体」は、すぐにエクリチュールと言い換えるべきではない。まさに文体(style)に、分析のスタイルが賭けられる。


twitter やブログの安易な自分語りは、むしろ抑圧のそぶりになる。あるいは自助グループで自分の話をしたがるのは、それだけ誰にも聞いてもらえないからであり、「抑圧されている」ゆえだろうが、それを単に「さらけだす」ことは、別の抑圧になる。「見せた」が、本人にとっても思考停止の言い訳になる。


精神分析と政治」という大枠のテーゼではなくて、*4
一気に「schizo-analyse」と言ってしまう、そこに別の分析スタイルを、つまり政治性や複数性の試みを見ているのだが。


立木氏は、精神分析をめぐるフランスの状況や、イーグルスホテル・カリフォルニア』に触れながら、次のような「絶望」をおっしゃった(大意)。

 自分がいま居る状況の外に出ていけない

他人事ではない。
この《外》で、私たちは何を考えているだろうか。
(たぶんそれぞれで違っている)



*1:「何かを言う代わりに別のことを言う、その《すきま》が心的空間」(立木) →このマテリアルな言い方がとても面白い。

*2:「倒錯は、《精神病・神経症・倒錯》の3つの分類には入らない」(十川)→「では質問したいのですが、倒錯と《死の欲動》の関係は?」(立木)

*3:必要な《分析≒暴露》は、むしろ抑圧されている。

*4:精神分析と政治」というテーゼを立てた時点で、重要な選択は終わっていると思う。つまり、《分析の方針》についての選択は。▼ある分析スタイルを選択した後で、その分析と政治の関係を考えるのではなくて、分析過程のスタイルそのものにすでに政治性が織り込まれている――そこで考えるべきではないか。