美術・批評業界への不信

 この日本の美術界という《悪い場所》を、閉じた円環を開放するロジックは、マーケットの論理しかない

岡崎乾二郎氏との対談で、こう語っていたのが斎藤環氏でした(参照)。


その斎藤氏が、『四谷アート・ステュディウム』閉校問題で、
しれっと寄稿しています(参照)。*1


斎藤環氏は、岡崎氏との対談で全くトンチンカンなやり取りをしていたのですが――よりにもよって、岡崎氏の主著と目される『ルネサンス 経験の条件』普及版で、解説者を務めるとのこと(参照)。


この人選は、外部から見てもあまりに異様です。
そもそも、ひきこもりをめぐる経験の条件(としか言いようのないこと)を論じた私を、雑誌連載から排除した張本人が斎藤環氏です(参照)。


岡崎×斎藤対談を取り上げた私のエントリは、何人かの美術関係者から「面白かった」と言っていただいたのですが――パブリックな形では、言及してはいけないような扱いになっているようです。
皆さんオブラートに包まれるので、はっきりとは分かりませんが、
私がこの対談について論じたようなことは、

 アート関係者の何人もが、同じように感じている。
 でも業界内部の人脈やマーケット事情によって、
 話題にしてはいけないことになっている

――そういうことらしい。


それを、アート業界外部の私が、正面から論じてしまった。
そしたら、論じた私がアンタッチャブルになった。


こういういきさつを知って、美術批評への疑いが生じています。――難解な美学がどうとかの前に、最低限のことを論じていないのではありませんか。


私は、アートそのものに介入しようとしたわけではありません。自分と斎藤環氏の共通テーマである「ひきこもり」を、内在的に論じようとしただけです。そしたらいつの間にか、アンタッチャブルな話をすることになっていた。

ひきこもり問題を本気でやると、やった本人が職場から追い出されてしまう――こういう事情こそが、私にとっての《経験の条件》です。岡崎乾二郎氏の議論は、そういう趣旨を共有するものと思っていました。


だから『四谷 Art Studium』が閉校されるというニュースも、私が排除されたいきさつに重なるはず――ところが、斎藤環氏は抗議側サイトに寄稿し、ズバリ『経験の条件』と題された岡崎氏の仕事に、解説まで依頼されている。


どういうことなんでしょうか。


斎藤環氏ご本人も、私とのやり取りの問題を自覚くださったなら、まずはそこに言及いただくのがスジではないのですか。*2


私との『Big Issue』往復書簡のいきさつを無視し、岡崎氏との対談に触れた拙エントリもなかったことにして、四谷アート閉校問題や、『経験の条件』解説が笑顔のもとに進んでしまう――斎藤環氏のみならず、岡崎乾二郎氏やその関係者に対しても、不信感をぬぐえません。


【つづき→「そこには、どんな参加ロジックが賭けられているのか」】


*1:四谷アート・ステュディウム』は、岡崎乾二郎氏が主任ディレクターを務める学校です(参照)。

*2:私のほうで、党派的に硬直するつもりはありません。これからでも、ご一緒できる仕事があるなら、検討させていただきます。――仮にご一緒するのが難しいにしても、私の存在を「いなかったことにする」のだけは、おかしいでしょう。