「批評の禁止」という露骨な差別

斎藤環の論考より(p.166):

 アール・ブリュットと向き合うための倫理綱領は、おおむね以下のようなものになるだろう。

  • (1)「批評」の禁止。 (2)「鑑賞」の禁止。 (3)「診断」の禁止。

〔…〕 それゆえ、倫理綱領に第四項目が加えられる。

  • (4)目撃し、関係せよ。



これこそ、斎藤が患者の作品を排除し、それを搾取する構造となっている(参照)。彼は患者を、自分と対等には批評しない。そのうえで、自分のために利用する。


つまり批評の禁止は、搾取している鑑賞者にも向けられている:
「批評をあきらめた鑑賞者を、批評してはならない」
――彼は観客席から、被差別民を見て楽しむのだ。


《患者≒当事者》ポジションに立たされた者は、もう二度と対等な言説権限を与えられない。私は、斎藤が私に向けるこの差別に、打ちのめされている。*1


患者と呼ばれた人にそれなりの事情があるとしても、どうしてそれを勘案した上での批評があってはいけないのか?*2 様々な《事情≒条件》を抱えつつも作業を続けているのは、医師や批評家とて同じではないか。


私はこれからも、努力を続ける。しかしそれは斎藤からは、別の階層の何かとして扱われる。この《経験の条件》を指摘した私を、彼は社会参加の場から排除した(参照)。


私は、《経験の条件を指摘してはならない》という禁圧と戦う以外に、やり直しの方法を知らない。それは原理的に、差別との戦いでもある。



*1:ところが、この差別的隔離はむしろ、支援を自称する者たちの倫理綱領となっている。→分析的な 《つながり方》 を設計するために【ケース4】を参照。

*2:批評には、作業過程や流通過程の問題も含まれるはずだ。