内部の問題としての暴力

登場した人物が、以下のようなことをつぶやいていた。*1

 大人たちは、暴力は《外部から》来るものと思いたがった。つまり暴力は、外部から身を守る意味での《治安》の問題だと。しかし実際には、むしろ内部の問題が大きい。



右派の暴力を、「同じ日本人の暴力」として論じることを「内部の問題」にしているのが、典型的なダメ左翼。
これでは、「右翼的なもの」を自分の外部に立てたに過ぎない。*2
――むしろ、当然視したくなるほど「良心的な左派系」と見えるものが、どういう抑圧を生きているか。内部とはそういうことだ。


内在的に《生成した》分析は異物であり、粛清の対象になる。
いつの間にか分析は、内弁慶になる(内輪でしか流通させられない)。こうなると、分析ゆえにあり得たはずの関係そのものが分析を失い、DV的になる。



官僚的な内部に対して、分析の外部性を場所として維持できるか。

今はジョークまでが、官僚的な恫喝となっている。*3
内部に発生した分析(という外部性)をつぶすことで、
「私たちにとって外在的な敵を殲滅したのだ」と喧伝される。

 「うちにもいじめはありますよ。完璧にやれてる、なんて言ってる人は嘘つきです」(ある小学校の校長)

まずはこれを言うところから。



いじめ = harcèlement = ハラスメント

この「harcèlement à l'école」は、フランス語で「学校でのいじめ」を言う決まった表現のようだが、いじめにあたる「harcèlement」は、「ハラスメント」と同じ語だ。




*1:記憶に頼って発言趣旨を敷衍しているので、逐語的な引用ではない。

*2:名詞的民族概念を通じて、左派は敵と味方を識別する。相手側を肯定すれば味方であり、「自分側の民族」を肯定すれば敵になる。左派の設計する《内部》は、実はきわめて差別的だ。▼「単なる外部」を民族概念で実体化する右派と、表裏の関係にしかない。

*3:イデオロギーの確認儀式であり、「共有されたタテマエ」を確認し合って嬉しがる。ひたすら威圧的であり、疑念を差し挟むことは、「反革命」「差別主義者」のレッテルを貼られることを意味する。左派がいじめをやめられないのはこれだ。