モノの鮮度なのか、作業プロセスの鮮度なのか

いわゆる若者支援にも、《鮮度》という発想があります。


ある引きこもり関連のイベントで

 「若者を受け止めてください」
 「ずっと引きこもってもいいじゃないですか」

と講演した大学教授は、
いっしょに登壇した30代後半の私に、舞台裏で↓こう言った。

 不登校経験者がイベントに出てるのを知ってるが、
 みんな20歳くらいだよ。君はいつまでやってるの

さっきあんた、「ずっと引きこもらせろ」って
講演したんじゃないのか。――そう言う代わりに、

 当事者というのは、ポジションとしては風俗嬢みたいなものだと言われたことがあります

と言ったら、彼はニコーッと笑って、「賞味期限ね」


《当事者》というのは、ジャーナリストや支援者・親御さんたちの幻想を満たして、はじめて存在を許される。自立した意見を持ってはいけないし、都合のよい利用対象になってあげないと、支援対象には入れてもらえない。


支援対象として尊重されるのは、

  • (1)できるだけ最近まで引きこもっていた、
  • (2)「若者」だけ。*1

――こういう発想で生きている支援者が、本当にいます。


「ずっと引きこもっていてよい」というのだけど、
高齢化した「当事者」は、徹底的にバカにする。
――じゃあ、どの瞬間に就労すれば良いんだ?


家にいることを肯定させようとする不登校支援の文脈には(参照)、
「年を取った人は家に居てはいけない」という不文律があります。
支援対象となるのは、「子ども」だけ。
在宅と就労の間をつなぐ作業過程の議論が、まったくない。


「当事者」という名詞形をちやほやして、支援者や知識人が満足する議論ばかりで*2、《本人がどう取り組んだらよいか》、その技法論がまったくない。

だから中間集団など、実際に取り組んだときに直面する困難については、議論そのものが抑圧されてしまう。「当事者を全面肯定すればよい」という、支援者ナルシシズムの文化ばかり。*3



どういう意味で、《鮮度》が必要なのか

生物的な若さは、発想の鮮度を保証しません。
また、商品のやりかたで鮮度を維持しても、「新しさを目指そうとする態勢そのもの」は、固定されたままです。つまり、《新しさ》をめぐる発想そのものが古い。


私たちはどういう条件で生きているか、今このまま固定させて良いものか、それをつねに理解しなおし、考え直すところで(参照)、《鮮度》の位置付けそのものを変えられないでしょうか。



*1:「若者支援」という看板があった場合、35歳の人は相談してよいのか問題

*2:支援者や知識人の多くが、官僚的に見える。

*3:《存在》を肯定する支援論は、《言葉≒分析》を抑圧する(参照)。