働かないことが問題となる引きこもり。
皮肉なことに、この問題の専門家は、「仕事をした」というアリバイ作りしかしていないことが多い*1。
彼らは、ルーチンをこなすだけで承認と対価を得られる*2。 逆にいうと、ディシプリンをはみ出した努力では業績にならない。――そこで、問題そのものの実態より、専門性の都合が優先される。 「そういう話にしておいてくれないと、僕の業績にならない」
何をしていいかが誰にもよくわからない引きこもり問題では、既存ルーチンで「仕事をした」と主張する人は、詐欺師の要因を持たざるを得ない。そこから考え直さなければならないが、うまくやらないと、この指摘そのものによって排除される。社会参加を続けるには、権力をにぎる「専門家」に都合のよい苦しみを生きなければならない*3。
専門家じしんが、承認問題の露骨な当事者となっている*4。
「くだらないことしか出来なくても承認されるべきだ」というなら、バカげた公共事業も承認し、税金を垂れ流せばいい。それがまずいというなら、《本当に評価すべき仕事は何なのか》を考え直さなければならない。それは承認をめぐる本物の格闘であり、負ければ「シゴトをしていない」と見なされる。
*1:その最悪の象徴が『私のしごと館』(参照)、『若者自立塾』、『ヤングジョブスポット』などだった(すべて廃止が決定)。 専門家は莫大な予算を投入し、「対策をしました」というアリバイを作るが、意味のある事業であるかどうかの検証はろくになされなかった。
*2:問題そのものを原理的に考え直せば、なかなか「シゴトをした」とは見なされない(承認されにくい)。 そしてもちろん、「考え直せば必ず評価されるべき」というものではない。
*3:制度的目線(メタ目線)にとって都合の悪い研究対象は、存在しなかったことにされる。ここにはもちろん、企業の権益や再分配の思惑も絡む。
*4:労働問題それ自体が、承認問題をパフォーマティブに体現する。労働問題でくだらないことしかやらない人がもらう給料は、事実上の再分配になっている。
*5:自己矛盾しているのは、「他者を承認しない人を承認しない」という立場だ。 肯定されるべき弱者の《言説》は、彼らの《存在》への承認とショートし、「弱者の言ったことだから正しい」にされてしまう(参照)。 また、言説レベルで「まちがった」者は、存在ごと粛清してよいことになっている。 【「生命を無条件に肯定しない者は殺す」のと同じ矛盾(参照)。】