《関係性=活動形》のマイノリティ

 学校で教えたい授業シリーズ(大阪)
 〜貧困・野宿 / 不登校・ひきこもり / 精神障害 / セクシュアル・マイノリティ〜
     当事者・支援者などによるセミナー

  • 【タイムスケジュール】
    • 10時〜12時 A:貧困・野宿問題(生田武志&赤羽佳世子) B:不登校・ひきこもり(山下耕平&)
    • 12時〜13時 昼休み(関連書籍などを販売します)
    • 13時〜15時 A:精神障害(芦田邦子&) B:セクシュアル・マイノリティ(大北全俊&)
    • 15時〜15時10分  休 憩
    • 〜16時30分 パネルディスカッション【テーマ「4つのフィールドが照らすもの」】

午前は「A:貧困・野宿問題」、午後は「A:精神障害」に参加。*1


行ってよかった。 ただ、そのことを何度も確認したのは、むしろ認めたくない欠落を想像的に埋めようとしたのだと思う。 「ここには、自分のつながれるスタイルがないかもしれない」。 (※以下に書くことは、多くの人にとって意味不明だろうと思います。でも、書いている私にとっては、どうしても言説化しておく必要のあることでした。今はそこから、新しい問題意識での取り組みを生み出そうとしています。)


わかりやすく分節された社会問題に取り組む、そういう作業の解決する局面がある。そのことと、プライベートな仲間ができるかどうかは別のこと。
マイノリティであることは、ふつうは「属性=カテゴリー」で同定される。しかし、「常にその場で関係を分節してしまう」という、活動形をした少数性は、どうやって同定すればいいだろう*2。 ひょっとするとそれは、仲間というものを作れない、そういうふうに出来上がったマイノリティ性かもしれない。 《仲間》という概念で想像される関係を、私は生きられないんじゃないか*3


関係資本」という言葉があったけど、関係を分節せずにいられない*4というのは、それこそが「絶対的貧困」(脱領土)かもしれない。 関係固定がなく、プロセスとして関係ができても、一瞬の接点があるだけで、あとは《つながれ》ない。これでは集団になれない(だから政治的にも弱いままにとどまる)。


わかりやすい問題意識があって、取り組みのスタイルを共有した関係には、労働パターンの固定がある。 私はそこに分節的介入*5を始めてしまう。 それは最善の疎外回避であり内在的に充実した分節かもしれないが、パターンの反復にも、固定的な関係領土にも安らぐことができない*6


ひきこもりからの脱出も、仲間作りも、直接解決しようとすると、うまくいかない。むしろ運動体は、《問いの扱い方》を共有し、自己肯定のスタイルを共有することで繋がる。――すると、自分のいる場所を解体してしまう私の問題意識(の体質)は、関係の破壊要因として現れてしまう。 共同体が共有している、「私たちは、この問題をうまく扱っている」という(それ自体としては肯定されるべき局面もある)ナルシシズムに、抵触してしまう。


たとえば私は統合失調症の患者さんの話に深く動かされたが*7、そのかたが苦痛を処理しようとする文化は、既存の文化パターンを踏襲していた*8。 彼は病人だが、「統合失調症」と名づけられた苦しみも、努力の方向性も、すでに文化に包摂されている。 ▼病気としてはより深刻なかたが文化に包摂されていて、病気ではない私は、自分の不可避的傾向で逸脱してしまう*9。 「こういう努力なしには関係性を維持できない」というその作業が、周囲から許されない。 「カテゴライズされた異常さ+わかりやすい対処文化」は包摂されるが、「病気ではない+対処文化が異常」は、どこにも居場所がない。


揉めごとには、決まったパターンがあって、法律や社会問題は、揉めごとの「パターン目録」になっている。――自分がこだわらざるを得ない問題は、社会ですでに流通しているような「問題」の形をしていないかもしれない。だとすると、それには名前がない。そんなスタイルで取り組もうとする私が社会的に位置づけられるはずもない*10


私が特異な関係しか生きられない嗜好をもつとして、それは私が “異常” で、だから社会的に意義がないのかもしれない。 私の問題提起が、これほどあちこちで怒りを買うこと。 「そこまでして揉め事を起こす意義は何なのか」。 意義があるという意識が先にあるから揉めているのではなくて、私はそんなふうにしか生きられない、その自分の身体性を持て余している*11
単に私が “異常” なら、私ひとりが消えれば安泰になる。 でも今の私は、そう思いすぎることが、逆に傲慢という気がする。人はそんなに都合よく「自分ひとりだけ異常」にはなれない。私の苦痛とそれへの適切な取り組みは、必ずほかの誰かの苦痛に関わっていて、その人を楽にできる。



政策レベルの貧困と、関係レベルの貧困

この二つは、分けなければならないが、絡み合ってもいる。
「関係の貧困」は、学校にケースワーカーを置けば解決、ということではない。
関係性は、作ろうと思えば作れるのではない。たとえばこれを読んでくださっているあなたが、「そうか、孤独なのか。それじゃ、仲間になろう」と思ってくれても、だからといって《仲間》になれるとは限らない。 「ひきこもりの問題に取り組んでいる」からといって、仲間ではない。それどころか、問いの体質が違っていて、お互いに許せなくなることがある*12
プライベートで、お互いに楽しくなるつながり。そういうものがうまくいくときは、どうなっているのか。意識化して語りすぎる人たちは、たいてい嘘をついている。ネット上にも、さまざまな「親密な関係性」が演じられているが、どの一つをとっても、「こんな関係はとてもやれない」と思ってしまう。

難しいのは、こういう問題意識に、正式な制度的枠組みを与えることだ。

《悩み方》そのものが、新しい形をとらなければならない。
それは、関係性のスタイルが、今までとは違う体質を持ち始めることを意味する。



*1:【参照】 ishikawa-kzさんによる、同日イベントの参加ルポ:「マイナーでまさしくホットな。されど、局所的な。

*2:関係維持の作法が、ほとんど生きられていないほど少数派ならば、そのスタイルで関係を作れる相手はほとんど見つからない。 ▼今回の発言者では、セクシュアル・マイノリティを担当されたお二人のお話(大文字の《問題》を語ろうとしなかった)が、まさにそのことを扱っていたのかもしれない。いや、今はまだ分からない。

*3:そもそも私たちは、《仲間》とか《恋人》という言葉で、どんな事態を意味しているのか。そこには、どんな忍耐や労働が含意されているのか。

*4:現状の素材化、つまり関係の一時的解体と組み直しへの呼びかけが、現時点で常になされる

*5:固定された関係への服従ではなく、分節プロセスの中心化

*6:そのくせ自分が夢中になって分節するプロセスには、そのつど付き合ってもらわなければならない。よほど周到な合意形成の手続きを経なければ、それは相手の自由を奪うことかもしれない。▼ひょっとするとそれは、親密圏でしかあり得ない(そこですら大抵は拒絶されてしまう)要求なのか。

*7:統合失調症にまつわる傷や葛藤は、ひきこもりにまつわる苦痛と深くシンクロしないかどうか。

*8:「治るとは、人間性を回復するということだ」など。そこで「人間性」と呼ばれているものは、何となく共有できたことになり、それが《つながり》として意識される。それが実際にいろんな恩恵を生んでゆく。「この人にはつながりがある」という指標も満たす。

*9:どこかで柄谷行人が、現象学的還元について、「やろうと思ってやるのではなくて、発作のようにそうなってしまうもの」と語っていたが(大意)、私がここで語ろうとしている《活動形としてのマイノリティ性》も、そういうものだ。関係性や置かれた状況に、うまく安堵できないこと。そしてそれは私にとって、徹底的に《倫理》の領域にある。 「本当はそうしたくないけど、格好つけてそうする」のではなく、フロイトなら反復強迫に位置づけるような、繰り返される分節への衝迫(参照)。 その分節が、精神分析の制度に回収されるのではなく・・・

*10:「個性」というが、個性という言葉で済むあり方は、そう名づける権力に支配されて包摂される(親が子どもを見守るような目線)。 しかし「個性尊重」のイデオロギーが想定しておらず、しかも単に反社会的というのでもないあり方は? 個性というのは、単体というより、《関係性のつくり方》で見るべきではないか。

*11:学校に行かないことに意義があるから行かないのではなくて、そんなふうにしかやれない体質的事実が先にある。 体質的事実を無視して意義があるか否か、許されるか否かを論じても意味がない。

*12:私はいま『新・精神保健福祉士養成講座〈4〉精神保健福祉論』を読んでいて、それは教科書としてとてもよくできていると思うが、そこに載っている「ピアカウンセリング」といった議論は、言われればすぐに想起できる関係性しか描けていない。そしてひょっとすると、ほとんどの人はそれで済むのかもしれない。