精神医学: 「原因論の三分類」
『社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)』は1998年末の出版だが、じつは同じ年の少し前に『文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ』という本を出していて、こちらが実質上のデビュー作。 これは、「心脳問題」への自分なりの回答だった。 精神医学は、心脳問題と切っても切れない。
精神医学では、精神疾患には原因が3通りあるとされる*1。 逆に言えば、精神医学の原因論はたったこれだけしかない。
- 内因: 「はっきりした原因がわかっていないが、おそらく脳だろう」
- 心因: 「たぶん心だろう」
- PTSD、解離など。 ▼昔は「神経症」「ヒステリー」があったが、現代では心因性疾患のこの二大カテゴリーが消滅した(『DSM-IV』から消えた)。
- 私たちは心について、時間的・空間的な連続性*3があるものと考えている(「昨日の私は今日の私」)。 その連続性が損なわれた状態のことを「解離」という*4。 解離がいちばん深いところまで行ったのが「多重人格」。 多くは性的虐待などのトラウマによって起こる。 ▼心脳問題のアポリアは解離において極まる。 これだけ行動や記憶に異常が生じるのに、脳髄に異常はなく「心因性」というのだから。 症状としてはいちばん派手といってもいい(統合失調症も今は昔ほど派手ではない*5)。
今日のテーマ、「脳はなぜ心を記述できないか」というのはやや挑発的な内容で、さいきん隆盛を極める脳科学に対するアンチテーゼを、精神分析寄りの立場からどのくらいまで言えるかをお話してみようと思う。
私が脳科学に対して、あるいは生物学的精神医学に対していちばん違和を感じるのは、多重人格のような疾患が「実在する」ということ。 それが「どこに実在するのか」について、脳科学は何も答えてくれない。 脳科学のいちばんの弱点は、器質因に還元して一元論化してしまうこと。 すべては「脳髄の異常」「ニューロンの異常発火」で説明がつく、という“お約束”になっている。 そこでは、「器質因・内因・心因」というような区分けは生じようがない。 それぞれの「記述の限界」に対する感覚が大事なのではないか。