スキゾ分析の「分析」の強調と、当事者的な分析労働について

1980年代、浅田彰氏を中心に、「スキゾとパラノ」という言葉が流行った。

 ここでまず思い起こされるのが、人間にはパラノ型とスキゾ型の二つがある、という最近の説だ。パラノってのは偏執型(パラノイア)のことで、過去のすべてを積分=統合化して背負ってるようなのをいう。たとえば、十億円もってる吝嗇家が、あと十万、あと五万、と血眼になってるみたいな、ね。それに対し、スキゾってのは分裂型(スキゾフレニー)で、そのつど時点ゼロで微分=差異化してるようなのを言う。つねに《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ。
 さて、もっとも基本的なパラノ型の行動といえば、《住む》ってことだろう。一家をかまえ、そこをセンターとしてテリトリーの拡大を図ると同時に、家財をうずたかく蓄積する。妻を性的に独占し、産ませた子供の尻をたたいて、一家の発展をめざす。このゲームは途中でおりたら負けだ。《やめられない、とまらない》でもって、どうしてもパラノ型になっちゃうワケね。これはビョーキなんだけど、近代文明というものはまさしくこうしたパラノ・ドライヴによってここまで成長してきたのだった。そしてまた、成長が続いている限りは、楽じゃないといってもそれなりに安定していられる、というワケ。ところが、事態が急変したりすると、パラノ型ってのは弱いんだなァ。ヘタをすると、砦にたてこもって奮戦したあげく玉砕、なんてことにもなりかねない。ここで《住むヒト》にかわって登場するのが《逃げるヒト》なのだ。コイツは何かあったら逃げる。ふみとどまったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。家財をためこんだり、家長として妻子に君臨したりはしてられないから、そのつどありあわせのもので用を足し、子種も適当にバラまいておいてあとは運まかせ。たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけだ。とくると、これはまさしくスキゾ型、というワケね。 (浅田彰逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)』p.10-11)



この「なんでもあり」でしかない「スキゾ」の言い分に、私は自分を統御する方針を見出せなかった。バラバラなものをバラバラなままに肯定する態度は、「アイデンティティの拡散」に相当する主体の危機を、「自分は民主的なんだ」というナルシシズムで凌いだものにすぎない。単に情報を並列することは、情報の流れがもっている権力の構図を放置することであり、強者はさらに強くなるし、弱者は「されるがまま」に自分を差し出す。無防備な自己曝露は、単なる全面撤退(ひきこもり)の方向にしか向かわない。

 要は、自ら「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身をさらしつつ、しかも、批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対照を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。 (浅田彰構造と力―記号論を超えて』p.6)

私は、これは消費する主体の態度にしか見えなかった。「ノル」のは消費のフォーマットに乗ること、「シラケ」は、赤ん坊が飽きたおもちゃを投げ捨てるようなイメージ。スイッチがオンになったりオフになったりするだけ。

 さて、〈聖〉と〈遊〉のこの連関が絶たれ、各々が閉じてしまうとどうなるか。〈遊〉なき〈聖〉は自己相対化の契機を失い、一定の価値への無際限の没入を招く。ファナティック*1な宗教におけるが如き極小政治セクトの分立はその一症例であるが、「学問の聖なる権威」に安住するタコツボ式専門バカにそれを笑う資格があるかどうかは疑わしい。他方、〈聖〉の契機を欠いた〈遊〉は、対象とかかわっていくダイナミズムを失い、モラトリアム期間内に局限された矮小な「レジャー」に堕す。アタッチメント*2なきディタッチメントが何の衝撃力ももたないのは当然だ。 (浅田彰構造と力』p.7-8)

この浅田氏の記述では、「ディタッチメント」は〈遊〉でしかなく、ただ対象を冷笑的に突き放すことでしかない*3。 しかし「ディタッチメント」というのは、単にシラケることではなく、「分析の熱意」でありその契機ではないだろうか。だとすれば、それは自分の当事者性へのフェアな距離と分析の態度であり得る。何かへの興味を失っても、参加を続けていれば、何がしかの当事者性は残り続ける*4。 ▼「ノル」ことは、権力を得た人間の無責任な勘違いであり、「シラケ」とは、自分が推進する力についての、醒めて突き放した分析の態度*5。 その分析は、分析そのものにおいて、強い熱意を持っている。つまり、むしろ「シラケ」のほうにこそ、労働の熱意とミッションが宿っている。

 ドゥルーズ=ガタリがアンチオイディプスで作り出した schizoanalyse(スキゾ分析、分裂者分析)の analyse(分析)の部分はほとんど無視されていたのだ。分析など精神医学に関係する行為であって、美術ではその前についた「バラバラ」という意味を表すスキゾだけで良いと考えられていた可能性がある。バラバラの各人が自己肯定することが一気に許可された雰囲気が醸し出されていた部分も大きかった。 (三脇康生「日本の現代美術批評とアンチ・オイディプス*6、p.255)

 80年代のインパクトは良くも悪くも大きかった。しかし完全にそこで導入し忘れていた要素をここでもう一度再導入するべきではないか。つまり分析(analyse)という活動が種々の次元で導入されるべきではないか。それは単純な応用精神分析の導入などではありえない。むしろ公(批評)か私(感想)か、見極めのつかない状態を恐れることなく、作品について、作家について、時代について、売れ方について・・・・調べて調べて分析(analyse)することではないか。 (同「日本の現代美術批評とアンチ・オイディプス」、p.261)



こういう理解であれば、「スキゾ分析」の文脈は、当事者的で現状改変的な分析労働の熱意に見える。




*1:狂信的

*2:付着、愛着、帰属

*3:そうしているうちに、無力感からすべてへの興味を失う。

*4:本人の主観がシニカルであるかどうかは、「実際に何をやっているか」の内実には無関係。ひきこもっている人は、本人の主観が参加を拒否していても、家族の経済的関係に参加している。同様に、どんなにシラケていても、社会人は何らかの力関係に参加している(巻き込まれている)。意識の上でその関係を否認しても、実際に生きてしまっている力関係がある。

*5:三脇康生は、それを「後ろ向きの想像力」と呼んでいる。

*6:批評誌クアトロガトス 2号』掲載