「アイデンティティ拡散症候群」と、「ひきうける」構図の改変

小此木啓吾モラトリアム人間の時代 (中公文庫 M 167)』p.33-4より。 もとの文章は、1970年代の後半に書かれている。 小此木自身によれば、彼が「モラトリアム人間」という言葉をつくったのは1971年とのこと。

 このような青年期=モラトリアムの延長に伴う、種々の心理学的問題を1950年代にいち早く指摘したのが、かのエリクソンである。ただし、エリクソンは、正常な“青年”についてではなく、何らかの精神障害のために、いわば受身的に、青年期後期に決別することができないまま、ずるずるとモラトリアム状態をつづけてしまう人々に特有な精神病理学的状態としての「アイデンティティ拡散症候群」について記載したのである。
 「アイデンティティ拡散症候群」とは、青年期に決着をつけ、オトナ社会に自己を位置づけ、限定することによって確立されるべきアイデンティティ=自己限定=社会的自己定義が、何らかの理由でできないために生じる青年期後期に特有な自己拡散状態のことである。

  1. 「自分は……である」という社会的自己(アイデンティティ)の選択を回避し、際限なくその選択を延期する心理状態にとりつかれ、
  2. 過剰な自意識にふけり、全能で完全な無限の自分を夢見るので、有限で相対的なすべての“現実”が自分にふさわしいものとは思えなくなってしまう。
  3. すべてが一時的・暫定的なものとしてしか体験できない。
  4. 時間的な見通しを失い、生活全体の緩慢化や無気力化を来たす。
  5. 人と人の親密なかかわりを避ける。
  6. いかなる組織にも帰属することを恐れる。
  7. 既存社会にのみこまれることへの不安が強い。

 この精神病理現象としての「アイデンティティ拡散症候群」は、一定の精神障害が緩慢化したために、モラトリアム状態から脱出して、社会的人間になることに挫折し、いつまでもモラトリアム状態にとどまらざるを得ない青年たちにみられる心的な徴候を意味していた。ひとたびこの拡散状態に陥ると、本来は手段であった準備状態としてのモラトリアムが現実そのものと化し、結果的には、あたかもそれ自体が目的ででもあるかのような、病的な心理状態が成立してしまうのである。
 ところが、エリクソンが一つの精神病理現象として描き出した、この「アイデンティティ拡散」は、1960年代以降には、精神病理学者や精神分析学者から“正常な”現代青年に特有なモラトリアムの延長心理とみなされるようになった。つまり、それは精神障害による精神病理現象としてではなく、むしろ普遍的な社会心理現象として、観察されるようになったのである。



この本の冒頭には、「失われた当事者意識」とある。つまりここで「当事者」とは、弱者として保護されるポジションではなく、「本来はひきうけるべき人」「引き受けざるを得ない人」のこと。「ひきうけるべきなのに、ひきうけていないじゃないか」という苦情が、上の世代から下の世代に向けられる*1
ひきうけることは、自己限定であるとともに、何らかの権力の図式に自覚的に巻き込まれること。権力がなければ、ただ「されるがまま」になる。権力を握れば、責任が生じる*2
弱者から見ると、強者は「ひきうけた」ことで手にした権力を、不当に行使しているように見える。弱者が「ひきうける」ことは、あらかじめ決まった不利益な状態に甘んじることでしかない(ように見える)。過剰に流動的でありつつ権力構造だけは決まった社会では、「ひきうける」ことは、屈辱をしか意味しない。ゲームに参加しても、やられキャラを演じることでしかない*3ひとまず引き受けられるところを引き受けた上で、そのひきうけ構図自体を変える努力をする必要がある
ひきうけたところで、ろくなことにはならない。そもそもパワーなど要らないというなら(つまり生き延びる必要もないというなら)、ひきうけることに意味がない。



参照:「クローズアップ現代 ネットカフェ難民」(Time Will Tell

 この問題を解決するには当人達の努力では不可能
 社会的な力を持っている側の人間が向き合わない限り無理




*1:あるいは、ひきうけられていないことに焦る本人自身の中でも、自責の念が暴走する。

*2:自分が弱者であることを強調する人は、実際に自分が権力と責任を負う側に回ったとき、うまくマネジメントできるだろうか。文句を言うだけなら、誰でもできる。

*3:「キャラを演じる」とは、固定された権力の構図を引き受けることに見える。