島宇宙化と、個人の政治的主体化

「こういう場合には、〜〜するべきなのに」という共通了解は、人によって、世代によって、まるで違っている。 後期近代の「島宇宙化」がもたらす帰結の一つは、お互いの礼儀を尽くした作法がお互いを不愉快にするということだと思う。
場面場面で自分を演じ分ける「個人の分割可能化」は、むしろ端的には、「トラブルの多発化」として体験される。 自分を分割させまくる流動性に耐えられなければ、社会的場面から撤退するほかなくなる。


こうした流動性にひたすら順応しようとする方向性は、自分がバラバラになってゆくような空虚感をますます肥大させる。 この反復強迫的な、トラウマ的な空虚は、それに同一化するしかない。 力でねじ伏せようとしても、身体と意識がある限り無理。


意識がバラバラになればなるほど、個人は政治的主体として破綻してゆく。
「症候への同一化」は、個人の政治的主体化の唯一残された指針に思える。